青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

わかりにくい痛み

RADWIMPSが「震災から7年」をモチーフにした新曲「空窓(そらまど)」を公開していた。主に震災のせいで住み慣れた町を離れなければならなかった人に対して、「その後どうしていますか?」と問いかける曲だ。曲はYouTubeで聴ける(歌詞もついている)。RADWIMPSの公式サイトにはヴォーカル洋次郎からのコメントが載っている。


空窓 RADWIMPS

ヴォーカル洋次郎からのコメント

http://radwimps.jp/wimps_repo/

 

私は震災で住み慣れた土地を奪われた人間ではないのに、この曲を聴いて胸がしめつけられるような想いがしてしまって、その原因に心当たりがあったので、今日はそのことについて書いてみようと思う。

 

私は転勤族の家に育った。小さい頃から住んだ順に言うと、旭川、札幌、東京、香港、東京、ジャカルタインドネシア)、東京、北京、東京、北京、東京。この時点で17歳。平均すると、ひとつの土地に1年6ヶ月しか住んでいなかったことになる。

頻繁に思うのだが、例えば「震災のせいで住み慣れた町を離れることを余儀なくされて、東北から東京の小学校に転校した」として、その場合は多くの人が「(移動を余儀なくされて)かわいそう」であることに同意してくれるのに、「父親が外国で仕事をすることになったので、父に連れ立って海外に引っ越した」ケースについて「かわいそう」だと思ってくれる人は少数派だし、むしろ羨望の眼差しを向けられることも多い(「駐妻」だとかなんだとかいう言葉が流行って、私はとても不愉快だった)。もちろん、震災のせいで移動することと、転勤で移動することには異なる点がいくつもある。経済的困窮度だって違うだろうし、心の準備のために与えられる期間だって違う。でも、家計について(経済的なことを)考えることをまだ免除されている年頃の子どもの立場に立ったときに、「震災のせいで移動すること」と「父親の仕事のせいで移動すること」にどこまで質的な違いがあるだろうか?

ある日突然移動を告げられること、その決定が自分の意志では絶対に覆らないこと、自分が移動を望んだわけではないこと、自分が時間をかけて築いた人間関係が一瞬にしてすべて奪われてしまうこと(ましてやフェイスブックもなかった時代に)、住居が変わり,土地勘のない場所に行くこと、転校生いじめにあうこと、そして新しい文化に「慣れる」ことを強制されること。これらはすべて、震災のせいだろうが、父親の仕事のためだろうが、移動を強制されれば同じことが起こる。あえて意地悪な言い方をするならば、東北から東京への移動なんて、言葉が通じるだけまだ良くないですか?

私が頻繁に移動しなければならなかった背景には、私の家に固有の問題もある。私には香港人の母がいる。母親がどこの国の人であってもそうだが、仮に父親が会社から移動を命じられたときに、「単身赴任」という選択をしたとすると、元の土地に残された母親と子どもは「経済的に困窮していないシングルマザー」状態になる。つまり、金銭に関わること以外のすべてのことーー主に子どものケア役割をーーを母親がひとりで引き受けることになる。私の母は、異国の地(日本)でひとりで子育てする自信がなかったのだろう。父がどこへ移動しようと絶対について行った。私は母を責めるつもりはもちろんない。「ふたりの子どものケア役割をひとりで引き受け(ワンオペ育児で)」「外国人に冷たい日本の社会で」「マイノリティとして」生きることがどれほど大変か、今ならわかるからだ。むしろ責められるべきは、ワークライフバランスを完全無視した人事異動を命じるような、日本企業の体質だろう。

 

卒業して1年以上経った今だから言えるけれど、私は東京外大にはとうとう馴染めなかった。その理由のひとつが、悲観的なもの言いが許されるならば、私は自分が「父親の自己実現のために犠牲になった」(「海外で仕事をして、自分が外国でも通用する人間であるか確かめたい」と言う父の野望を叶えるために、家族である私の人生はめちゃくちゃになった)と思っているからだろう。そして、東京外大に通い目をキラキラさせて「海外で仕事したいですっ!」と言うような圧倒的多数の外大生は、私の父と同じ轍を踏む人間であると思うからだ(補足だが、私の父は東京外大卒ではない)。

私の今に続くメンタル不調の発端は、高校生のときに中国の田舎で食中毒で死にかけPTSDになったことだ。もちろんそれがなくったって別のきっかけでメンヘラになったかもしれないけれど、少なくとも中学受験して入った私立の女子校を私はすごく気に入っていたし、中国の高校に行かなければ「食中毒で死にかける」という出来事は起こらなかった。父が自分の自己実現より、私がその女子校に通い続けることを優先してくれれば、あるいは母が異国の地でひとりで子育てすることに同意してくれれば(それはそれで大変そうだけれど)、私はこんなに苦しむことはなかったのに、とどうしても思ってしまうのだ。

東京外大に居た頃に、「外国にルーツを持つ子どもに、勉強を教えるボランティアをしませんか」と言う誘いをよく見かけた。外大生の得意技である外国語を活かして、(主に日本語が不自由であるせいで)学習に不利を抱えている子どものサポートをしようという趣旨のものだった。「外国にルーツを持つ子ども」???その言い方が許されるのならば、中国に住んでいた頃の私は「外国(日本)にルーツを持つ子ども」だったのでは??誰も私を助けようとしてくれなかったけど??むしろ「若いうちから外国語を身につけられていいねえ」くらいにしか思われてなかったけど????

似たような話をもうひとつしよう。むかしNHKのドキュメンタリーで、在日ブラジル人の親(両親のどちらか、あるいは両方がブラジル人)を持つ子どもが、子どもは日本語しかできない、親は日本語が不自由、という状態の中で親子の間でコミュニケーション不全が起き、子どもの発達に支障をきたしているので、ポルトガル語と日本語の両方ができるカウンセラーが親子支援をしている、というような特集番組を見た。その番組を観たときの私の率直な感想は「羨ましい」だった。「在日ブラジル人」というような、ある程度存在の認知されたマイノリティであれば、カウンセラーが介入してくれることもあるけれど、「国際結婚」で「自発的に」親子で言語が違うという状況を選んだ人たちは、支援の対象にならないのだ。「親子で言語が違うせいで、コミュニケーション不全が生まれている」という状況は同じであるにも関わらず。繰り返し述べているが、その状況を「自発的に」「選んだ」のは「親」であって、「親子で言語が違うせいで、コミュニケーション不全が起き、そのせいで発達に支障をきたしている」という状況を被ってる子どもに「親が」「選んだ」かどうかは関係ないのだ。

 

ずいぶん後ろ向きなことを書いたけれど、私は自分の人生をネガティヴなことばかりだと思っているわけではない。たくさんの移動を経験したことも、マイノリティとして生まれたことも、すべて今の大学院での学びのモチベーションになっているから、今となっては糧となる出来事だ。

でも、私が主張したいのは、「親の海外転勤」だろうが「震災のせい」だろうが、子どもにとって「移動の有無を選べなかった」ということは同じなのに、前者の痛みは(恵まれている側面ばっかりに焦点が当てられて)ないことにされて、「親の海外転勤」だろうが「外国にルーツを持つ子ども」だろうが「母語でない学校に通っているせいで学習に不利を抱えている」ことは同じなのに、前者は「自発的に」「(親が)選んだ」という理由で放置されて、「国際結婚」だろうが「移民」だろうが「親子で言語が違うせいでコミュニケーション不全が起きている」ことは同じなのに、前者はやっぱり「自発的に」「選んだ」からないことにされることの残酷さだ(繰り返すが、「選んだ」のは「親」であって「本人」ではない)。

 

むかしよく言っていたけれど、例えば「お金がないがないという不幸」は「わかりやすい」。「自分は貧乏苦学生なんです」と言えば、少なくない人数の人が同情を示すか、少なくとも痛みを頭ごなしに否定されることは少ない。でも、それが「毒親」だとか「性暴力被害」だとかいう「わかりにくい不幸」になった途端、その痛みは「世間」の「圧倒的な力」で「なかったこと」にされてしまう。「わかりやすい痛み」の影に隠れた「わかりにくい痛み」を抱えたたくさんの人たちに、このブログを読んだ人だけでも想いを馳せてくれたら、と思う。

セキララ

4月から半年間、大学を休学することになった。

その経緯を、今日は赤裸々に書こうと思う。

 

私は高校生になった頃くらいから、慢性的にメンタルの不調を繰り返している。

PTSDに始まり、強迫神経症うつ病、フラッシュバック体験をしてPTSDの再発、デートDVを受け新たなトラウマを抱えこみ・・・気づけば自分の病名もよくわからないまま、精神科の薬に頼るのが当たり前になっていた。それでも、薬を飼い慣らし、根性で(と精神病患者が言うのも変だけれど)副作用をねじ伏せて、なんとか今日まで生きてきた。

そして、その間に4回病院を変わった。

つい昨日まで通っていた病院が、その4つの病院の中では「相対的にいちばんマシ」な病院であり、4年以上通院していた。それでも、親には「あの先生あまり治す気なさそうだし、病院変えたら」と言われ続けていた。

「精神科とか、患者を薬漬けにしてお金を巻き上げるだけの簡単なお仕事」だなんて言いたくないけど、日本の精神科医療の現状はそうなってしまっていると思う。

私の好きなブロガーのニャートさんが、「駆け込み寺を作るために仏教を学ぶことにした」という記事の中で、こんなことを書いていた。

精神科の開業医なら、3分診療で患者をできるだけ回転させて薬価の高いSSRIを処方するのが、最も楽に儲かる。
しかも、完治させずに長期間薬を処方するほど儲かる。

つまり、やぶ医者の方が儲かる仕組みになっているのだ。

nyaaat.hatenablog.com

 

精神科の先生が書いた本や、精神病当事者の手記やブログをたくさん読んだ。そしてわかったのは、「自分に合う精神科のお医者さんを探し続けて10年(その間病気は良くなったり悪くなったりを繰り返し)」みたいな出来事が決してめずらしくないということだ。

仕事や学校を投げだして「自分に合うお医者さん探し」をしている人を否定するつもりはない。それは本当に苦しい道のりなのだ。むかしツイッターで見かけた表現を借りるなら、それは「メンタルクリニックにメンタルを削られにいく旅」なのだ。

 実際、私の身近にも引きこもりをしながら自分に合う精神科のお医者さんを探してる間に高校生からアラサーになってしまった人もいる。そして、そうなるしかない日本の精神科医療の現実を、私はとても悲しく思う。

でも、でも。

私は自分の人生の時間をそんな風に使いたくはない。病院を変えなければいけないのはわかってる。でも宛てもないし、そんなことしている間に、他のことを何もしないまま10年経ってしまうかもしれない。幸い、薬の副作用は辛いけど、工夫を凝らせば日常生活をおくれないほどではないし、今の精神科に通い続けて、治ることはないかもしれないけど、悪化もしていない。

そう言い訳をして、自分の病気と薬のことを、ずっと先送りにしてきた。

 

ここからが本題である。

東大には、保健センターという施設がある。そこは内科とか精神科とか皮膚科とかひととおりの診療科が揃っているミニ病院のようなもので、東大の学生と教職員が福利厚生施設として利用できる。外の病院を探すのは大変だけれど、東大の施設なら行ってみてもいいかもしれない。そう思って、1月の終わりから東大の保健センターの精神科を受診していた。

そして、そこの先生と話し合って、薬を減らす計画を立てることにした。

少し細かい話をすると、私は3種類の薬を、4年以上に渡って使っている。そのうちひとつは、東大の先生の言葉を借りるなら「薬理的にはまだ増やしても大丈夫」な薬だけど、残りふたつは「依存性が強いので、あまり長くは使いたくない薬」なんだそうだ(「あまり長くは使いたくない薬」を4年間も使っていたという事実がめっちゃ怖いけれど、昔のことは言ってもしょうがない)。

その「依存性の強い薬」を辞めることを目標に、2月始めから薬を減らし始めて、依存性の強い薬のうちのひとつを、現時点で半分の量にまで減らすことができた。そして、薬を減らしたり変更したり(一時的に依存性の低い別の薬を)追加したりしている間は、一時的に体調が悪くなったり、気持ちが不安定になったりしやすいので、勉強と両立するのはしんどいということで、休学して治療に専念することにした。他にも、私が薬の副作用だと思っていた症状が、別の病気の症状である可能性も否定しきれないので、これから色んな検査を受けたりもする。そんなこんなで、学校を休んで自分の病気と向き合うことにした。

 

日本の精神科医療の現実は、本当に悲惨だ。

 少し精神科と関わったことのある人なら、「病院変えたら」と言われた瞬間に、もうその人のことを信用しなくなるくらいには、「ちゃんとした」精神科医を見つけるのは難しい。

私は他の人より、ほんの少し勉強が得意だったから東大の施設を利用できるけど、もしも私が病気で、かつ勉強も苦手だったら?

私はなんとか自力で薬の副作用と付き合って勉強を続けることができたけど、それが自分の努力ではどうにもならないほどにひどいものだったら?

ずっと前から言ってるけれど、日本社会というのは、常に自分が立っている地面のすぐ横に大きな黒い穴が空いていて、その闇が隙あらば私たちを飲み込もうとしているような社会なのだ。その闇に飲まれる人がひとりでも減ることを祈って、今日の話を終わりにしたい。

体調が悪い

ずいぶん長い間ブログの記事を書いていない。授業だ、バイトだ、課題だと忙しかったのは確かだけれど、そんなのは言い訳にすぎない。ここ数ヶ月のわたしには明確な“ブログを書けない理由”があった。かくかくしかじかの理由で、無期限でブログをお休みしますというような記事を出そうかとさえ思った。でも、更新を急かされるわけでもないブログでそんな宣言をする必要もないかなと思って辞めた(気づいたら最後の更新から2ヶ月以上が経っている)。ちなみに“わたしがブログを書けなかった理由”は今日の本題ではないので、その話はまた今度。

先に断っておきます。今日のブログは随筆文なので(いや、ブログはいつだって随筆文だが)、ただ考えていることを思いのままに書きます。読みづらいと思ったらブラウザの戻るボタンを押してね♡

 

体調が悪い。

 

いや、悪くはない。大学院生になってからのわたしは、自分史の中で見れば相対的に体調はかなりいい。食欲はあるし、ガリガリに痩せてもいないし、お肌の調子もいいし、毎晩ぐっすり寝てるし、なによりツイッターの鍵付きアカウントに毎晩「死にたい」と書き込んだりしない(そんな時期があったのだ)。

でも体調は悪い。薬の副作用は相変わらずひどいし、食べものアレルギーが多くてひどい偏食だし、帽子をかぶらないと外に出れないし、かき氷1杯で腹を下すし、月に2回のペースで熱を出している。

ある日、本屋で『不調のときに食べたいごはん』という本を立ち読みした。そして思った。「わたし毎日こういうごはん食べたい」。きっと健康なひとを基準にすれば、わたしは毎日「不調」なのだ(この本は後日購入した)。

自分はマイノリティだと思う。中国人ハーフで、転勤族で、帰国子女で、カトリックで、大学中退経験者で、ついでに今は大学院生だ。でも、自分の中でマイノリティとしての当事者意識がいちばん強いのは「病気を抱えて日本社会で生きている」ということだろう。病気になってみればわかるけれど、日本社会はびっくりするほど病気のひとに対して冷たい。

ビジネスホテルに泊まれば必ず全身に湿疹のできるひとの気持ちがわかるだろうか?業務用の洗濯のりがダメなのだ。肌が弱いから化粧もできない。市販のハンドクリームや乳液の類はほとんど使えない。素手で洗剤にさわることもできない。ひとり暮らしの知人が「だって効果は同じだし」食器用洗剤で手を洗っていると聞いたときは「ふぉお、健常者っょぃ」と思ったものだ。

日本の長時間労働は健常者だってつらいけれど、わたしみたいな病気のひとはそもそも「普通に働く」という選択肢がない。9時5時で週5日働く体力があるかだって怪しい。薬の副作用があるから、長距離の飛行機にも乗れない。「死ぬまでヨーロッパに行けないの?」と聞かれたら、真顔で「シベリア鉄道でなら行けるかな」と答えるようにしている(もちろんジョークだ)。

夏休みになるとインスタやらフェイスブックやらに、旅行やらかき氷やら花火大会の写真が次々に流れてくる。心が荒んでいるときのわたしは「ヨーロッパに飛行機で行ける健康な身体があっていいですね」「かき氷を食べれる丈夫な胃があっていいですね」「花火大会の人混みに耐えられる体力があっていいですね」。すべてがすべて、そんな風に思えてしまう。

「それだけ優秀だったら、就活は引く手あまたでしょ」と就活のときにどれだけ言われたかわからない。違うのだ。日本語と英語と中国語を使いこなし東京外大を卒業している女性に企業が求めているのは、「月100時間の残業も平気でこなし海外出張にバリバリ出かける」ような働き方なのだ。その働きをする健康な身体がなければ、語学力と東京外大卒の肩書きはただのゴミ屑だ。就活をしていて痛いほど実感した。

 

教育社会学の勉強はおもしろい。研究の道を選んだことを後悔したことはない。ゼミの先生にも同級生にも恵まれて、この道を選んで良かったと心から思っている。それでも、自分の身体の制約をもどかしく感じることがある。もっとたくさんの研究会に入りたい。もっとたくさんの勉強会に出席したい。でもわたしの限られた体力は、必修の授業に出るだけで精いっぱいだ。アメリカやイギリスに行って方法論を学びたい。博士に行ったら学振を取りたい。でも研究費をいただくということは、限られた時間内に成果を出さなければならないということだ。わたしの体力でつとまるだろうか?考えだしたら不安は尽きることがない。

 

BUMP OF CHICKENに「HAPPY」という曲がある。その曲の出だしの歌詞は、こうだ。

健康な身体があればいい 大人になって願うこと

たまに親しい友人に、病気を抱えて生きていくことの不安を打ち明けると、「BUMPの歌詞の通りだね…」と言われることがある。うるせぇよ。バンプを歌えばわたしの病気が治るんですか。


BUMP OF CHICKEN『HAPPY』

 

この話にオチはない。強いて言うなら、19かハタチくらいの頃のわたしは、日本社会に蔓延する「自己責任論」を骨の髄まで内面化していた。病気になってしまった自分を責めた(今の病気で正式に病院にかかり始めたのは高2のときだ)。病気になった自分に生きている価値はないと思った。でも今は、そういう考え自体がおかしくて、病気のひとや障害者や外国人やお年寄りや子どもや女性にとって、もっと「生きやすい」社会に、社会のほうが変わっていくべきなんだと思えるようになった。そう思ったからって社会が急に変わるわけじゃないけれど、少なくとも「生きていてごめんなさい」と思うことはなくなった。わたしはわたしで、やるしかないのだ。

 

2017年8月18日 追記.

だから、わたしは自分の身体を大切にしないひとを見ると本当に腹が立つ。身体に替えは効かないのだ。健康な身体は失って初めてそのありがたみに気づく。でも、失ってしまってからでは遅いのだ。

【最新版】auからIIJみおふぉん(格安ケータイ)にMNPで乗り換えてみた【スケジュール完全公開】

auからIIJみおふぉんにMNPで乗り換えるまでのスケジュールを完全公開したいと思います。

 

事前準備

GW中に表参道のApple storeSIMフリーiPhone SE 128GBを購入しました。

格安ケータイへの乗り換えは、すでに持っている端末で行うのが一般的ですが、

auiPhoneの場合、iPhone6より古い端末(iPhone6含む)ではSIMロック解除ができないこと

⑵使用していたiPhone6が16GBで、常に容量不足に悩まされていたこと

⑶よく海外に行くので、SIMフリー端末を持っていることが望ましいこと

の三つを理由に、SIMフリーiPhoneを新たに購入しました。

SIMロック解除できる端末を持っている場合は、auのSIMロック解除のページから解除手続きをしましょう。ネットでSIMロック解除をする場合は、解除料は無料です(auショップへ行くと手数料を3千円取られます)。

 

Day 1(木曜日)

13:30 auMNP予約番号を発行してもらう手続きをする。0077−75470へ電話をかけると、音声ガイダンスの後にオペレーターさんと電話がつながります。言葉巧みにiPhone7を購入することを勧めてきたり、これからもauのキャンペーン情報のメールを送り続けて良いかなどを尋ねてきますが、すべて断って予約番号を発行してもらうことだけを目標に通話を乗り越えましょう。通話の最後に口頭でMNP予約番号を教えてもらえます。通話時間は10分ほどでした。

発行された予約番号は、通話終了の数分後(今回は13:51)にSMSでケータイに送られてきます。なので、通話中にメモを取り忘れたり、間違えてメモしたりしてても大丈夫です。

なおMNP予約番号を発行しただけではauは解約になりません。MNP予約番号は15日で期限が切れるようになっており、期限が切れた場合は何度でも再発行できます。

 

13:45 IIJのウェブサイトからSIMカードの申し込みが完了。

わたしの場合はすでにIIJのデータSIMを持っていたので申し込みが早かったのですが、新たにIIJのアカウントを作る場合はもう少しかかるかもしれません。

 

13:46 IIJから、本人確認書類画像をアップロードするよう求めるメールが来る。なお、このメールは文字列の都合なのか(?)迷惑メールフォルダへ振り分けられてしまう確率が非常に高いので、申し込み完了して数分しても本人確認以来のメールが来ない場合は、迷惑メールフォルダを確認しましょう(通常は申し込み完了後、すぐに来ます)。

 

16:17 ケータイで運転免許証の写真を撮り、メールの指示にしたがってアップロード。すぐにIIJから折り返し「本人確認書類画像受付完了」のメールが来る。

 

Day 1はこれで終了です。

 

Day 2(金曜日)

15:15 IIJから本人確認完了のメールがくる。 他のかたのブログも拝見したのですが、15時前後に来ることが多いようです。

 

Day 3(土曜日)

18:54 IIJからSIMカードを発送したというメールがくる。後でクロネコヤマトに問い合わせてみたところ、実は17:20には荷物の受付をしていたようです。

わたしは休みの日は午前中に起きない人間なので(笑)、クロネコヤマトのアプリから荷物の受け取り時間を14−16時に指定しました(再配達を頼むのは申し訳ないのでね)。

 

Day 4(日曜日)

15時すぎ SIMカードが自宅に到着。ヤマトのお兄さんいつもありがとう。

15:25 IIJの開通センターに電話をする。こちらは自動音声ガイダンスのみで、通話は2分ほどで終了。

16:27 auから、「解約完了」のメールがくる。これもなぜか迷惑メールフォルダに入ってました。ここでauiPhoneが「圏外」になる。

16:40 IIJから「MNP転入手続き完了のお知らせ」メールが来る。

新しいSIMカードiPhoneに装着し、SIMカードに同封されていた書類の指示に従ってIIJmioのプロファイルをインストールして設定完了。

 

SIMが届いて即日開通です。

 

特に曜日とかは関係なく、MNP予約番号発行から4日で乗り換えが完了するというのが最速(今回のケース)だと思います。

電話が使えない「空白期間」は、今回の場合はau解約完了からIIJの手続きが完了するまでの13分間でした(もしかしたらIIJはもっと早く使えたのかもしれませんが、「転入完了」のメールが来るまでSIMをiPhoneに装着しなかったので…)。

なお、手続きをすべてWi-Fiのある環境で行えば、一時的に使えなくなるのは電話だけでLINEその他のスマホの機能はすべて継続して使えます。

 

***

 

いくつか注意点。

⑴本体代の支払いが残っている場合は、引き続きauに本体代を払う必要があります。これからも分割で払い続けるか、今月の支払いで残りの本体代金をすべて支払ってしまうかを選べるようです。MNP予約番号発行の電話のときに、オペレーターさんにどちらがよいか伝えましょう。

MNP予約番号の発行には手数料3千円、さらにMNP転出が完了すると¥10,260(税込)の違約金(2年に1回の解約月以外に解約する場合)が発生します。しかし、本体代金の支払いが終わっていてもauスマホは維持するのに月々最低5千円はかかるのだから、それを思えば違約金を払ってでも格安SIMに変えたほうがトータルでは安く済みます。

MNPで乗り換えをする場合、元の契約名義(今回の場合はauスマホ)と転出先(今回の場合はIIJ)の名義が(住所なども含め)完全に同じである必要があります。加えて、SIMカードは契約に使用されている住所のところに配達されて来ます。なので、実家の住所でケータイを契約して今ひとり暮らしをしている人などは注意が必要です。

 

***

 

月々のケータイ料金は。

わたしの場合、家と大学を往復するだけの日々で、家にも大学にもWi-Fiが飛んでいるので、通信容量は月々3GBで足ります。

したがって、

900円(データ3GB)+700円(音声通話機能)+300円(留守番電話)=1900円(税抜き)

になりました。

留守番電話機能はオプションなのですが、ないとどうしても困るので付けました。

なお、IIJには電話かけ放題プランなどもあるのですが、1ヶ月に満30分間電話をかけないと元が取れない金額だったので、かけ放題プランには入りませんでした。友だちはLINEやスカイプで十分だし、そうそう電話なんかかけないよ。なので実際は、ここにさらに10円/30秒の電話代が追加されます。

格安SIMの場合は、デフォルトでテザリングiPhoneで言うところの「インターネット共有」)が使えます。なのでひとり暮らしのひとは、iPhoneをポケットWi-Fiの代わりとして使うことも見越して、6GBとか10GBとか大きめの容量で契約しても、インターネットを契約するより安く上がるかもしれませんね。

わたしはMNP転入する以前からIIJのデータSIMを使用していましたが、通信品質などに特に不便は感じません。

auテザリングオプションを付けるのになんで追加でお金を取られるのか納得が行かん・・・。

 

***

 

ぜひ参考にしてみてください。

「タバコを吸っていなければベンツが買えた」理論じゃないですが、格安SIMに乗り換えることで浮いたスマホ代であんなことやこんなこともできると想像をふくらませると楽しくなりますよ( ´ ▽ ` )ノ

ずぶ濡れでも雨宿りでもない、もうひとつの選択肢

 「やまない雨はない」って軽々しく言うな論争が、Twitterで繰り広げられている。

 

これを見ていて思ったのだ。本当に選択肢は、「ずぶ濡れになる(現実に耐える)」か「雨宿りできる場所を探す(現実に屈する)」しかないのかと。

そんなこと考えながら金曜日にMステを見ていたら、竹原ピストルさんの「Forever Young」という曲の中に、もうひとつの選択肢が示されていた。その歌詞を引用しよう。

雨宿りするくらいなら

晴れている街に駆けて行くさ

 

竹原ピストル「Forever Young」 より

 

そうなのだ。雨が降っている場所がつらいなら、その場から逃げて晴れている街に行くこともできるのだ。

「逃げちゃダメだ」とシンジくんは言った。*1でも、「逃げてもいい」のだ。目の前の現実だけがすべてじゃない。より生きよい場所を探すことは悪じゃない。それなのに、このセカイは「逃げた人」を「弱虫」だとか「臆病者」だとか言う風潮があまりにも強い気がする。 

自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、誰がシロクマを責めますか。

 

梨木香歩西の魔女が死んだ』より 

 いま辛い場所にいる人へ。逃げてもいいんだよ。逃げた先に居場所が見つかることもあります。心をすり減らしてまで取り組まなきゃいけない課題なんて、人生の中でそう何回もあるものではないのです。

 

余談ですが、ひとつめの引用の竹原ピストルさんが、トラック運転手役として出演している映画『永い言い訳』は、2016年の邦画のマイベストヒッツなので、関心のある向きはぜひご覧あれ。


映画『永い言い訳』本予告

*1:新世紀エヴァンゲリオン』の名セリフである。

大学卒業のご報告(と雑感)

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 フェイスブックより先にブログを更新するところが、わたしらしいですね(笑)

 タイトルの通り、無事に東京外国語大学を卒業して、大卒資格(学士号)を手にしました。

 わたしはこれから修士課程に進むので、(結果的に)学士は通過点に過ぎないような印象を与えていると思います。あえて教育社会学の専門用語を使うならば、日本は「高等教育のユニバーサル段階」と言って、高等教育進学率が50%を超える社会です。学士号を手にすることは決して難しくないし、むしろ(少なくとも、東京や大阪などの大都市圏では)「お金さえ払えれば誰にでも」の状態にあるとさえ言えるでしょう。

 

 それでも、わたしにとっては欲しくて欲しくてたまらなかった学士号でした。

 

 以前にも何度かブログに書きましたが、わたしは高校卒業後に現役で東京理科大学の物理学科に進学したものの、主に学業不振が理由で(他にも理由はあるけれど)中退に追い込まれました。19、ハタチくらいの若者にとって「大学中退」は「人生終わった」と思うには十分すぎる出来事です(今なら、そんなことないってわかるけどね)。

 だからこそ、四年制大学をきちんと卒業することは、理科大を中退したときからの悲願でした。病気も抱えながら、大学中退から人生を建て直し、大学卒業を達成できたことは、わたしにとっては大きな意味を持ちます。ひょっとしたら、この後に続く修士号よりも、わたしにとっては学士のほうがずっと思い入れの強いものになるような気もしています。

 

 わたしの、この6年間に関わりを持ってくださったすべての皆様に心より深くお礼申し上げます。皆様のご恩に報いることができるよう、これからも日々努力してまいります。

 

私が東京外大に在籍していた間に読んだ本で、最もオススメの本です。どうぞ:

運命を司る人智を超えた存在って居ると思う

 まいどブログのタイトルをつけるのが下手で申し訳ありません。怪しい宗教の勧誘ではありません。

 

 少し前だけれど、永田カビさん作の『寂しすぎてレズ風俗に行きましたレポ』と『ひとり交換日記』を読んだ。永田カビさん自身の経験をもとにしたエッセイ漫画で、誤解を恐れずに言うならば、前者は毒親育ちのメンヘラがレズ風俗に行くまでの経緯を書いた漫画で、後者は毒親育ちのメンヘラがいかにして自立したかを書いた漫画だ。

 

  わたしは漫画家ではないけれど、色々と共感することが多く、Kindleで2冊とも購入して3回も読んでしまった。

 

 さて、ここからが本題だ。

 ツイッターでこの漫画の感想をながめていたけれど、賛否両論で、「わかる」という意見もあれば「作者クズすぎるだろ」というものもあった(ちなみにわたしは圧倒的に前者だ)。そして、ツイッターで見つけたこの漫画の感想の中で、心にチクリと刺さるものがひとつあった。それは(元ツイートを探し出せなくて残念なのだが、削除されてしまったのかもしれない)要約すると「親と確執があるのに実家に住み続けなきゃいけない人は大変だよな。自分が(親のせいで)メンタル病んでるのわかってるのに、どうして食えない職業(=マンガ家)目指すかな?」という内容のツイートだった。

 永田カビさんがマンガ家を目指すようになった経緯は本編中に出てくる。永田カビさんは元からマンガを描くのは好きだったらしいが、あまりにも親に「正社員になれ」と圧力をかけられるので、ついに正社員になるべく就活を始める。しかし、面接のたびに「あなたが本当にやりたいことはなんですか?」と聞かれ、そのたびに正直に「本当にやりたいことは、たぶんマンガです」と答えてしまう。あげく、面接に行ったパン屋さんで(永田カビさんはパン屋で長くバイトをしていたので、就活のときもパン屋で正社員を目指した)、面接官のお兄さんに「さっきまで、なんとなく来ちゃったけどどうしようという感じだったけど、マンガの話してるときだけは目がキラキラしてたよ。マンガがんばりなよ!」と言われてしまう。

 

 この、「社会的に見たら決してよい方向ではないにしても、ある特定の仕事や生き方にどうしようもなく引き寄せられてしまう」感覚がとてもわかるのだ。

 

 ここからはわたしの話をする。わたしは5,6年くらい前からずっと「研究者になりたい」と思っていた。だけど、何年か社会人経験をしてから大学に戻る人はたくさんいるので、わたしも一度は就職して、それで何年か経ったら大学に戻って研究者になろう、と思っていた。

 だから、大学3年の夏頃には普通に就活をしていた。そして、大学3年の夏休みに、ある会社で(中)長期インターンをした。そこでわたしは実力を認められ、具体的な役職名は会社がバレるので伏せるけれど、仕事を教えてもらった直属の上司に「ウチの新入社員より仕事ができる」と褒められ、仕事のあとの飲み会ではポジションで言ったら副社長くらいの人に「君はウチに来なさい」と言われ、その副社長が人事のひとに直接「この子はウチに来るから」と耳打ちしているところもこの目で見て、別の社員さんには「本音を言えば今すぐウチで働いて欲しいけど、会社を決めるって一生のことだから、このインターンを恩義に感じることないからね」という気づかいの言葉までもらった。

 

 そこまで言われた会社を、3次面接で落ちた。

 

 長期インターンしたその会社に受かるだろうけど、万に一つ落ちるってこともあるかもしれないから、いちおう人並みに就活しておこう、くらいの気持ちでいた。だけど、就活していたときのわたしはなぜかボロボロだった。肌は荒れ放題、気持ちは常にイライラして、最後には生理が止まった。

 

 そして、その会社からの不採用通知を受け取った次の日に、HSK6級(中国語版TOEFLみたいなヤツのいちばん難しい級だ)の不合格通知が届いた。

 

 わたしは元々HSKの6級を持っていた。だけど、それは外大の編入試験を受けるために短大の2年のときに取得したものだったので、HSK6級の有効期限(2年)があと少しで切れてしまう、と思って再度受験した。再度受験したら落ちた。

 

 いきなりこんなことを言うと「頭が変になった」と思われるかもしれないが(実際変なのかも知れないが)、わたしは神様っていると思う。そしてそれは別に「神様」じゃなくて「運命を司る人智を超えた存在」という呼び名でもいい。わたしには「神様」がしっくりくるので、ひとまず「神様」と呼んでおく。

 

 長期インターンした会社に落ちたとき、もう就活は辞めて大学院に行こうと思った。けれど同時に、今している中国(香港)の地域社会研究を続けることにも強い違和感があった。自分はそんなに中国語が好きではないし、中国研究で修論が書けるとも思わなかった。その話は、「大学院合格によせて」にもう少し詳しく書いたので、そちらへどうぞ。

koyukisdec20.hatenablog.jp

 

 幾重にも重なる体調不良と、自信のあった会社の不採用通知は、「君が進む道はそっちではないよ」という神様からのメッセージに思えた。そして、HSK6級の不合格は、「君が進むべき道は中国研究ではないよ」というメッセージに思えた。

 そうして、大学院には行きたい、だけど中国研究は続けたくないから外大の大学院には行けない、さてどうしよう、というわたしの「真にやりたいこと探し」の旅が始まる。数ある「中国研究ではない分野」の中から、なぜ教育社会学を選んだかというのは、長い話になるので、また今度。

 

 ともかく、永田カビさんのマンガの話に戻ると、永田カビさんだって、経済力がないから実家に住み続けないといけない自分に、そして独立したいなら正社員にならなきゃいけないのに何故かそれができない自分に、誰よりも自分自身がいちばん苛立ちを覚えていたと思うのだ。だけど、永田カビさんはどうしようもなく「マンガ家」という仕事に引き寄せられてしまって、それはほとんど「どうしようもない引力」と言ってもよいようなものだと思う。

 そして、わたしも同じように「研究者」という仕事に、あるいは「大学院」というものに、どうしようもなく引き寄せられていると感じるのだ。ちなみに大学院を受けると決めてから肌荒れは嘘みたいに改善したし、生理も再開した。

 

 インターンで実力を認めてもらえた会社に落ちたのは、わたしが気づかなかっただけで、面接でなにか言ってはいけないことを言ったのかもしれない。HSK6級に落ちたのは単なる勉強不足で、肌荒れも生理が止まったのも単に体調管理がなってなかっただけかもしれない。

 でも少なくとも、わたしはそうして導かれた今の進路に心から満足しているので、ひとまず神様はいることにしておこうと思う。