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青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

「想像力の欠如」問題についてわたしが思うこと

 わたしが2,3年前から「推し」ている、ルポライターの鈴木大介氏の東洋経済の連載が、先日ネットで大きな反響を呼んでいた。貧困報道の「解釈」をめぐる記事だ。

toyokeizai.net

 わたしもアカデメイアの端くれにいる人間(自称)なので、「出典」を大事にしたいけれども、リンクを貼ったところで読まない人は読まないので、重要だと思うポイントを書き出す。

 タイトルのとおり貧困報道を「トンデモ解釈」で受け取る人がいる――という記事で、それは例えば「こんな若者が日本にいるはずない!」「これは俺が知っている貧困じゃない!」というものだったり、お腹を空かせた少年が万引きしていると聞いて「防犯に役立てます!」と言ってしまうような「解釈」のことだ。

 

 一方で、「トンデモ解釈」をする人の気持ちもわからなくはないのだ。

 

 父親とこんな会話を交わしたことがある。

 私は身近に「奨学金(奨学ローン)」問題のわかりやすい「被害者」がいるので、いつもこの問題を他人事として見れないし、ついついニュースを追いかけてしまうのだけれども、そんな中で最近は奨学金を借りている男子学生との交際を親に「禁止」されている女子大生がいる、という記事を目にした。

特集ワイド:お金ないから大学行けない 国立でも授業料年54万円、40年前比15倍 - 毎日新聞 

http://mainichi.jp/articles/20160204/dde/012/100/005000c

 交際から結婚に発展した場合に、高確率でワーキングプアに陥るからだ。

 もちろん恋愛は本人たちの自由意思で行うのだから、親が交際を禁止するのは子どもに対する過干渉だ――という反論は成り立つし、実際そうだろう。でも、まだまだ「家族」規範が強い日本で、娘の交際相手に口を出し、奨学金を借りている男子学生との交際を「禁止」する親がいたとしても、なにも不思議ではない。

 しかし、この話を父親にしたところ、苦虫をかみつぶしたような顔をされ、「日本ももう未来がないね」とひとことだけ言って話題を変えられてしまった。

 そのときの父親に対してわたしが感じた奇妙な違和感――父親をdisるつもりはないけれど、この問題を「自分が生きている社会の問題」として受け止めていない――という感覚を、わたしは折にふれ様々な場所で感じる。そのときにわたしが相手に感じるのは、「無関心」というよりも、「現実が重すぎるから受け止めたくない」という感覚に近い。

 

 そう、「底辺なんて知らねー、俺だけが幸せならそれでいいんだ!!!!」という人を除いて(そういう人も知り合いに何人かいるけども)、多くの「善良」な人にとっては、貧困報道は、「かわいそうだとは思うけども、解決策も思いつけない自分」に居心地の悪さを感じさせ、結果それから逃避したくなる性質のものなのではないか。

 

「わたしは逃避しない度量の持ち主だ」と言いたいわけではない。わたしだって逃げたいのだ。わたし自身、大学を中退したり入りなおしたり、メンヘラクソビッチをやったり引きこもりやってた時期があったり、普通の人よりは少し多くの世界を見たかもしれないけど、自分は恵まれていると強く自覚しているのだ。日本の格差社会の上から下まですべてをスケールに含めたら、わたしが見た世界なんて「誤差」の範囲におさまってしまうものかもしれない(それでも、階級間で価値観が「断絶している」と感じたけども)。

 この問題を考え続けて、ある日わたしは大学で、自分が受けていた講義の先生に向かってこんな質問をしたことがある。

 

「社会科学系の研究しているとお腹痛くなりませんか?」(原文ママ

 

 貧困問題に特にこの特色が強いけども、他の問題でもいい。例えば、東アジアで女性に子育てと介護の負担が集中しているという問題を発見して、じゃあ外国人家事労働者を受け入れよう!(そういうことを政策的にやっているところもある)と思ったとしても、外国人家事労働者は目下深刻な人権問題を抱えていることがすぐにわかり、「日本だけが豊かになればいい。他の国の人の人権なんて知らねー」と割り切れるメンタリティの持ち主でない限り(そういう人もいるけども)、外国人家事労働者の受け入れ議論にだって与することはできなくなる。

 

 社会科学系の研究/勉強を続ける限り、この「無力感」から解放されることはないのだ。

 そして、ハッキリ言って、この「無力感」は、たいへんに「しんどい」。

 ひとつの事実を知って胃が痛み、その解決策を調べて、その解決策が抱えている問題を知って胃が痛み、何もできない自分の無力さに胃が痛み……胃がいくつあっても足りないほど「胃が痛い」作業なのである。

 上記の質問を先生に投げかけたのは大学3年の秋で、院試を受けようか就活をしようか悩んでいた時期で、わたしが自分が「研究者になれない」と思うのは、この胃痛の無限連鎖に耐えられない気がしたからだ。もっと身も蓋もない言い方をすれば、研究成果を出す前に、自分がノイローゼになってしまうと思ったのだ。

 

 そんなわたしの思いを、代弁してくれてるブログ記事があった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

「想像したいものしか想像したくない」「でも私のことはわかってほしい」という想像力のダブルスタンダード――これこそ私の中をずっと悩ませていたものの正体であり、わたしが引き裂かれそうになっている矛盾でもある。

 

 わたしが今日このエントリを書いているのは、社会科学系の研究者になりたい人をディスカレッジするためではない。わたしは「社会科学系の研究しているとお腹痛くなりませんか?」問題の、間接的ではあるけども、「答え」を見つけたのだ。

 それが、この本に出てくる「ジャッジメントアセスメントを区別する」という考え方だ。

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 この本自体は精神医療に携わる人向けに書かれた本で、特にPTSD治療について書いてあるのだけれども、そこで用いられている「ジャッジメント」「アセスメント」という概念が、学術研究にも応用できるように思う。

ジャッジメント」は、受け手(精神医療の現場なら医者、社会科学の現場なら研究者)の主観的判断のことだ。一方、「アセスメント」とは、事象そのもの(精神医療の現場なら病状、社会科学の現場なら社会現象)の評価だ。受け手の個人的体験やその日の気分に大きく影響を受けるのが「ジャッジメント」で、「アセスメント」は他の人物が同じ手順を踏んで同じ解析をしたら同じ結果にたどり着くという性質のもの、と考えるとわかりやすい。

 この本では、「PTSD患者の支援に携わる人は燃え尽きやすい」ということも書かれている。人間はやはり、圧倒的事実の前には立ちすくんでしまう生き物であり、それは(誤解を恐れずに言うならば)「悪いことではない」のだ。

 つまり、社会科学に話を戻すと、研究を通して行わなければならないことは正しい「アセスメント」であり、「ジャッジメント」ではないということだ。そして、これは考えてみたら当たり前のことなのだ。人文社会科学ではときとしてそれがわかりづらいこともあるけれど、「再現性の保証」というのは自然科学の最もベーシックな考え方のひとつだ。

 

 でも、研究はそういうスタンスでやるとしても、研究を続けるモチベーションはやはり別に必要で、それが(時として本人の胃が痛くなるような)「正義感」であることも確かだろう。

 社会科学の研究者になる覚悟をするならば、この「胃が痛い」と「でもやらなきゃ!」の間を、危ういバランスを取りながら行ったり来たりするしかない――少なくとも、現段階でわたしが持っている答えは、これだ。

 もっとも、大学の先生の中には、研究対象に対してすごく割り切った態度で臨んでいる人もいて(しかも、そういう人はえてしてものすごく優秀な研究者だったりする)、学生から見ると「ちょっと人としてどうなの……。」というような人もいなくはないけども。

 

 圧倒的事実を前に人間は足がすくむ生き物であり、「想像力の欠如」と呼ばれるものは、言い換えれば「ノイローゼからの自衛行為」でもあり、それは責められるべきものではないし、そういう人間を責めるべきでもない。見たくない現実と向き合い続けるということは、本当に「しんどい」のだ。それでも向き合いたいと思うならば、「ジャッジメント」と「アセスメント」を区別し、さらに自分がノイローゼにならないようにちゃんと「逃げ道」も作った上で向き合うしかない。

「想像力の欠如」(「欠けている」)と言うと悪いことのように思えてしまうけれども、それは人間の防衛本能からきているものであるように思う。大切なのは、それを「欠如」と批判することではなくて、人間の限界と向き合いつつも、それでも自分がしなければならないこと、したいこと――貧困報道の文脈で言うなら、貧困の「可視化」とか、社会保障の充実とか、社会への問題提起とか――をいかにして達成するかだ。

 

 この記事をシェアするのは、もう何回目かわからないけれども、私が鈴木大介氏を知って、彼をリスペクトするきっかけになった記事なので、何度でも貼ります。是非読んでください。

wotopi.jp

わたしと妹の性格がちがいすぎるという話

 今、母と妹と3人で話をしていて、「我発見せり」みたいな想いがあったので書き留めておく。

 今日は半日かけて大学院の研究計画書を書いていたのだけれど、6割程作ったところで、本当に私は今年大学院を受験するのだろうか…という想いが出てきてしまい、グダグダ悩んでいたら、妹が言い放ったひとこと。

 

「期日までに書類の作成が間に合ったら受験する、間に合わなかったら受験しないじゃダメなの?」

 

 なるほど。人生なんとかなると思っている人間はこういうスピリットで生きているのである。それに向かって、「間に合わせると決めたら絶対に間に合わせるのがお姉ちゃんなのよ」と母。さすが母は私のことをよくわかっている。

 

 そして、書類を出したら、夏休みは丸々院試の勉強をしなくてはならないよね、という話に。私は3月~4月中旬まで就活(結果は出せなかったけど)がんばりすぎて派手に体調をくずしてるので、また院試の勉強のしすぎで身体を壊すんじゃないか、そして真剣に勉強して落ちたらまたノイローゼになるかもしれないよね、という話で、妹が言い放ったひとこと。

 

「30%くらいの気持ちで勉強して、それで落ちたらああやっぱり、受かったらラッキーじゃダメなの?」

 

「私は就活でも100%の本気でエントリーシート書くから燃え尽きるのかね」と私が言ったら、「あなたのは100%じゃなくて200%でしょ」と母。妹は先日留学から帰ってきたばっかりで、ちょっと前までヨーロッパにいたのだけれど、「私はパリで飛行機がディレイしたときに、いつ飛ぶかわかんない飛行機を待ちながら空港で超テキトーにインターンのES書いてたわ」

 なんていうか、鬱にならない人間というのは常にこういうメンタリティで生きているのだなと思った。

 

 表面だけ見ると、私は真面目な優等生で、妹はちゃらんぽらん、に見えるかもしれないけど、実際は私みたいな人間は早々にメンタル失調になって、妹みたいな人間のほうがちゃんと就職してちゃんと自立したりするから、世間の言う「真面目が美徳」なんてクソくらえ。

自己責任と"コジンシュギ"

 眠くてブログなど書けないと言いつつ、ひとつ書き留めておきたいことを思い出したので。

 

 昨年度の冬学期に受けた社会学系の集中講義の授業で、その授業の先生と「真の『個人主義』とは何か?」という話をした。

 日本社会では、何かというと「自己責任」論が出てくる。例えば、その集中講義をやってた当時ネットをにぎわせていた「奨学金」問題然り、外国で日本人ジャーナリストが拘束されたときの世論然り、「奨学金は自己責任で借りるのだから返済が苦しくても自己責任だ」「そのジャーナリストは自己責任でシリアに行ったのだから、危ない目にあっても自己責任だ」――本当に嫌になるほど、何もかもを個人の責任に還元しようとするのがこの国だ。

 この「自己責任」論は、西欧的な個人主義の考え方と日本人がもともと持っている性質が悪い形で合わさって生まれたものだ――みたいな仮説を当時の私は持っていたのだけれど(もう細かくは覚えていない)、ともかくそれはまちがいだ、ということがその先生と話している中でわかった。

 日本社会に渦巻く「自己責任」論は、「とにかく自分ひとりで出来る以上のことはするな」という考え方で、それは真の『個人主義』とはほど遠い――というのが、その先生の意見だった。その先生は医療社会学を専門にしているのだけれど、この「自己責任」『個人主義』の定義を採用してしまうと、障がい者などは「何もしてはいけない」ということになってしまう。そうでなくて、障がい者が「自分の意志で」「自由」に行動できるように適切なサポートを与えることこそが、「個人の尊重」であり、それこそが真の『個人主義』だろう、と。そして、これはもちろん障がい者に限らず、健康な人でも同じだ。

 

 なるほどなぁ、と思った。

 

 …と思ったら、そういうことを言っているのは何も私とその先生だけじゃなくて、何年も前に優れた先行研究が出ていた。『変貌するアジアの家族――比較・文化・ジェンダー』(2004、昭和堂)の中で、ケント・ポーリンというイギリス人の日本研究の先生が、日本独特のこの『個人主義』を真の個人主義と区別して「コジンシュギ」として論じていた。

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 ともかく私も18歳か19歳くらいまでは、人生で起こるすべてのイベントの責任は私に帰属していて、だから社会に隠された悪を効率よく拒む方法を身につけることこそが大人になるということだ――という考えを持っていて、もしも大学中退を経験しないでストレートで卒業していたら、そう思ったまま卒業していたかもしれない。だから、18歳から22歳までの4年間、という時間は(特に人文社会科学の)学問の意義に気付くにな、あまりに時間が足りないし、あまりに若すぎるよなあと思う。私は大学生活の5年目くらいにようやくそれに気づいたけど、普通の大学生は大学5年生にはならないのだ。

 この自己責任論にハマっていった結果、私は「人生は一度の失敗も許されないなんてあんまりじゃないか」と思うようになり、病み気の頃はそんなことばかり考えていたのだけれど、そうじゃなくて、社会はもっと希望あるものに変えられる、というのを私に教えてくれたのが人文社会科学だ。

  そう、「個人の救済は勉強」なのだ。

新大学1年生に伝えたいこと

 こんばんは。

 この時期になると、「大学新入生に伝えたいこと」という趣旨のブログ記事が増えますね。別に大学1年生じゃなくても役に立つことが多く、私も興味深く拝見させていただいております。

 一方で、いつも感じることがあります。それは、「これって、結局文系か理系によって違うし、大学の偏差値によっても違うんじゃないの?」ということです。

 例えば、「大学時代はたくさん本を読め」というのは100%正論なのですが、私の知っている理系の人の中には「活字アレルギー」とも呼べるような人たちがいて、彼らに読書することを要求することは難しそうです。あるいは、例えば相手が東京外大の新入生だったら、「たくさん旅行に行ったほうがいいよ」とアドバイスするのですが、これは東京外大だから言えることであって、学費は奨学金を借りて、定期代や教科書代は自分のバイト代で払って…みたいな学生が大多数の大学で「旅行に行くこと」を推奨しても、彼らにはそんな資金力はありません(親の経済所得と子どもの学歴に相関関係があることは、多くの教育社会学者の先生方が指摘されている通りです)。

 というわけで、私が「大学新入生に伝えたいこと」というテーマでブログを書くなら、「人文社会科学系」の「国立大生」に伝えたいこと、みたいなタイトルで書くことになるのかな、とも思ったのですが、もうひとつ別の挑戦をしたい気持ちもありました。それは、「大学新入生にとって大切なことは、文系か理系かによっても違うし、大学の偏差値によっても違う」ことを承知した上で、「それらの枠を超えて、すべての大学生に対して普遍的に言えるアドバイス」を考えてみよう!ということです。

 

 以前からブログを見ていただいてる方にはくどい話ですが、いちおう私の自己紹介を、履歴書形式で。

2010年 6月 Harrow International School Beijing(高校/中国北京)卒業

2011年 4月 東京理科大学 物理学科 入学

2013年 3月 〃 中退

2013年 4月 カリタス女子短期大学 入学

2015年 3月 〃 卒業

2015年 4月 東京外国語大学 国際社会学部 中国語専攻 3年次編入

2017年 3月 〃 卒業見込

 海外の高校を卒業して現役で理系で大学に進み、2年で中退して1年生から文系大学生をやり直している、と理解していただければ大丈夫です。春から大学4年生になりました。

 理系単科大学、文系最底辺、文系トップ校の3つを渡り歩いた私が、これら3つの場所で共通して新入生に言えることがあるとしたら何だろうか、と考えて以下書き進めて行きたいと思います。

 

 私が大学生に、大学生の内にやっておくべきことをアドバイスするとしたら、以下の3点を挙げると思います。

 

⑴「貯金するという感覚」を身につけておくこと

 みなさんの多くは、これからアルバイトをすることになると思います。私の友人の中にはアルバイトをがんばっている人が多くいて、学校と両立しながら月に10万円くらい稼いでいる人も少なくありません。

 私は学年が2年ダブっているので、同級生の中にはもう就職して社会人になっている人もいます。その中で気づいたことは、「貯金というのは練習しないとできるようにならない」ということです。大学時代に一生懸命バイトして毎月10万円以上稼いで、ブランド物の鞄を買ったり毎月ディズニーに行ったり、学生の内はそれでもいいのかもしれませんが、学生時代に毎月のバイト代をすべて使い切ってしまう習慣のある子は、社会人になって給料が増えても同じことをする傾向があります。給与が増えたからといってお金が貯まるわけではありません。「貯金するという感覚」を身につけておかなければならないのです。

 極端な話、卒業旅行とかで社会人になる前に一回使い切ってしまってもかまわないから、少ないバイト代でも、「貯金するという感覚」をみなさんには大学生の内に身につけてほしいと思います。

 

⑵「人生のメンター」を見つける

 これは私が言い始めたことではなくて、『20代 今あなたがやるべきこと』という本から着想を得たことです。

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 この本の中に、20代の内にやっておくべきことのひとつとして、「人生のメンターを見つけること」というのがあるのですが、最近「人生のメンターだと思えるような人」の存在の大切さをひしひしと感じているので、みなさんにお伝えしたいと思います。

「メンター」という言葉を辞書で引くと、以下のように出てきます。

 

メンター(mentor)

 優れた指導者。助言者。恩師。顧問。信頼のおける相談相手。ギリシャ神話で、オデュッセウストロイア戦争に出陣するとき、自分の子どもテレマコスを託したすぐれた指導者の名前メントール(mentor)から。

小学館デジタル大辞泉』より

 

 辞書に書いてある通りで、「自分の人生の顧問」あるいは「どんなときでもこの人の言うことなら信じられると思えるような相談相手」をメンターの定義としたいと思います。

 メンターのいる人間というのは強いです。形式にこだわる必要はありませんが、自分が「この人は私の人生のメンターだ」と思えるような、(できれば年上の)相談相手を大学時代の内に見つけられると、その後の人生の大きな助けとなると思います。

 私は幸いにして、自分の人生のメンターを見つけることができました ;)

 

⑶「どんな場所でも自分次第で有意義な場所にできる」と心得ておく

 みなさんの中には、第一志望の大学に合格して喜びに満ちあふれている人もいるかもしれませんが、実は多くの方はそうではなくて、第二志望、第三志望、あるいはすべり止めにしか受からなかった、という人もいるのではないでしょうか。そういった人の中には「自分は第一志望に受からなかったから、大学でしたい勉強ができないのだ」と言ってやる気を失くしてしまう人も多くいます。

 私自身がFランク大学に通った経験から100%断言できるのですが、どんな場所でも自分次第で有意義な場所にできます。私もカリタス短大の1年生の頃は、何度「こんな大学辞めてやる!」と思ったかわかりません。でも卒業する頃には、「カリタス短大の2年間は私の人生にとってなくてはならない2年間だった」と心の底から思うことができました。

 

 社会人にもなって学歴マウンティング合戦をしている大人たちは、高校3年生のときに第一志望に受からなかった自分を、4年間の大学生活を終えたあとでもまだゆるせていないのではないか、と感じます。4年間(短大はたったの2年間ですよ!)を実のあるものにして、第一志望の大学でないなりに何かを得たなら、「第一志望の大学には行けなかったけど、今はこの道で良かったと思ってる」と必ず言えるはずです。そして、自分の置かれた環境で得られる限りのものを得るのも、4年間をドブに捨てて学歴マウンティングをする醜い大人になるのも、すべては自分次第です。それだけしっかり心に刻んでください。

 

 最後に、私が読んだ大学新入生向けの記事の中で、いちばん役に立ったと思う記事を載せておきます。

d.hatena.ne.jp

 

 みなさんの学生生活に幸運がありますように!

 グッドラック!!

 

昨今のマスコミの倫理低下の解決策を考えてみた

 こんばんは。こゆきです。

「マスコミの腐敗」がネットでは大きなトピックですね。先日、藤原帰一先生がこんなツイートをしていました。

  文字にしてみると当たり前のことなのですが、こういうことを逐一リマインドしなければならないほど、現在の日本の言論をめぐる状況は混乱していると言えるかもしれません。

 

 私は身近に記者さんやマスコミ関係者が割と多くいるので、マスメディアのことを「マスゴミ」と言って批判することには同調できません。私の知り合いの記者さんの多くは、すこぶる真面目に仕事をしているからです。同様に、「読売は自民党の機関誌で、日経は経団連の機関誌で、朝日は社民党の機関誌で…」みたいな言説にも賛成しかねます。実際に読売や日経や朝日で働く人を何人も知っていますが、彼らがそんな気持ちで仕事をしているとは、とても思えないからです。

 でも、それはそれとして、テレビや新聞を見ていて辟易することはよくあります。もう少し節度のある報道はできないのか、と思うこともよくあります。

 

「ジャーナリズム」とよく似たフィールドに、「社会学」があります。ジャーナリズムと社会学の違いについて述べると、それだけで1本のブログ記事になってしまうので、それは一旦脇へ置いておきます。

社会学」の社会調査では、研究者は厳しい倫理規定を守らなければならないことをご存じですか?

 一般社団法人社会調査協会という団体が、「倫理規定」と「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」というふたつのガイドラインを公開しています。どちらもネットに公開されていて、無料で全文が読めます。

 

「倫理規定」URL: http://jasr.or.jp/jasr/documents/rinrikitei.pdf

「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」URL: http://jasr.or.jp/jasr/documents/rinrikitei.pdf

 

「社会調査士」の資格を取る場合は、この倫理規定を遵守することが要求されます。

 

 また、「日本世論調査協会」という団体も、倫理規定をウェブサイトに載せています。

(財)日本世論調査協会[トップページ]

 

 私は、何も「社会調査士」の資格を取らなくても、それに近いことをする人たち――すなわち、現場で取材をする記者さんや、それを報道する報道関係者――の人たちは、みんなこの社会調査の倫理規定を知っておく必要があると思うのです。

 

 例えば、「倫理規定」の第3条に、次のような文言があります。ここでいう「会員」とは、社会調査協会の会員を指します。

 

第3条 調査対象者の協力は、自由意志によるものでなければならない。会員は、調査対 象者に協力を求める際、この点について誤解を招くようなことがあってはならない。

 

 つまり「ヤラセ」はいけないと言っているわけです。

 他にも第6条に、次のような文言があります。

 

第6条 会員は、調査対象者をその性別・年齢・出自・人種・エスニシティ・障害の有無 などによって差別的に取り扱ってはならない。調査票や報告書などに差別的な表現 が含まれないよう注意しなければならない。会員は、調査の過程において、調査対 象者および調査員を不快にするような性的な言動や行動がなされないよう十分配 慮しなければならない。

 

偏向」調査はダメだと言うわけです。

 

「人類学の調査に関する基本姿勢と基本指針」の中の、「倫理上の判断とその責任」という項目には、次のようなことが記載されています。

 

15. 研究者が倫理上の問題について判断を下す際には、次のことを考慮しなければならない。

1) 当事者である対象者や研究者の各個人あるいはグループは、同時に複数の異なる社会集団に 属する。

2) 各社会集団の価値観や利害は一般に相互に異なり、判断のために優先順位を検討する必要が 生じることがある。

3) 研究者は、学術的共同体の一員であると同時に、社会の一員である。

4) 研究者が個々の倫理判断において払う努力の質と量は、人々の科学や学問に対する信頼を左 右し得る。

16. 倫理上の判断を行う者は、最善の努力をもって判断に関わる要素を特定し、その判断の根拠 を明らかにしなければならない。

17. 状況の複雑さや判断の困難さは、倫理上の問題に本来的なものであり、安易な妥協の口実に してはならない。

 

「調査」される側も生きた人間であり、それに対して最大限の配慮が行われるべきで、それを「難しい」と言って投げ出してもいけない、というわけです。

 

「解決策」は具体的なほうがいいので、私は次のように提案します。

 ジャーナリストや報道関係者を志す学生には、少なくとも大学生の内に、この「倫理規定」を熟読しておくことを義務付けるべきです。あるいは、義務付けることはできなくても、選考採用の際に、この「倫理規定」をきちんと勉強した学生になにかしらのメリットが与えられるべきです。

 もっと具体的に言うなら、例えば大学の教養科目のひとつとして、「社会調査倫理」という科目を開講し、この「倫理規定」と「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」を輪読し、各項目について、なぜその倫理規定が必要か、それが守られない場合どんな問題が発生しうるか、学生が持ち回りでプレゼンテーションする――というような授業が実施されるべきだと思うのです。社会学の先生がいれば十分できます。

 本当はマスメディア側が新人研修でやらなければならないことなのかもしれませんが、それはとても望みが薄そうなので、「大学」側で行うことを提案しています。

 

 大学でそんな授業をやったところで、マスメディア側は採用活動のときにそれを見るのか?という疑問については、東洋経済から次のような記事が出ていたので、紹介しておきます。

 学生が大学でどんな勉強をしたかに焦点を置いて採用活動をしよう!という試みです。

toyokeizai.net

 そんなことが本当に実現可能なのか私は疑問ですが、実現するといいなあ、と思っています(大学で真面目に勉強した学生が報われる社会になるべきです…)。

 

 社会調査協会の倫理規定に書いてあることを、マスメディアがすべて遵守しなければならない、ということではありません(いや、しなければならないのかもしれないけど…)。でも、社会学の社会調査は少なくともこれくらい厳しい倫理規定の元で行われている、ということを現場で取材する記者さんは知っておくべきだと思うのです。

 

 私は「社会調査法」という授業を履修したことがあるのですが、そこで感じたことは、「社会調査」というのは、日常を非日常に変えてしまうものだ、ということです。

 その場所で暮らす人にとっては、調査員がいない状態が日常であり、調査員がやってきた途端、非日常が始まってしまいます。社会調査をする人間は、そのことを常に自覚しておくべきです。「自分たちが調査している相手も、自分と同じ生きた人間である」――昨今のマスコミは、この当たり前の原則を、忘れているような感じがしませんか?

 

 最後に参考文献を載せておきます。

www.amazon.co.jp

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 アフィリエイトにはしてないので、買っていただいても私は一銭も儲かりません(その内やり方調べるかな…)。

「奨学金」問題について私が思うこと

奨学金」問題が連日話題になっていますね。

 私がTwitter上で記事をシェアしたり、リツイートしたときの反応の多さでも、この問題への関心の高さがうかがえます。

 よく言われることだけれど、教育分野というのは「一億総評論家」の分野なので、当然といえば当然かもしれません(教育はだれもが受けたことがあるので、みんな評論家になれるということ)。

 

 私は、この問題には複数の論点があると思っているので、以下簡単に整理してみたいと思います。

 まえおきですが、私は教育が専門でもなければ経済の専門でもない、社会学をちょっと勉強してるだけの大学の学部3年生にすぎないので、分析が至らない点やリサーチ不足も多々あると思います。

 ただ私は、学部生5年目で、3つの大学に通いました。そういう意味では、少しは他人と違った見方ができると思っています。私のプロフィールはこちらを参照してください:

こゆき(@eva_q1117)のプロフィール - ツイフィール

 

⑴「学びたい」という言葉はミスリーディング

 この問題に対する反応で、よく見かける態度は、大きくわけて2種類に分けられる気がします。①奨学金は自己責任で借りるのだから返済が苦しいなんていうのは甘え、という態度と、②親の所得の格差によって学歴格差が生まれる社会はやはり健全ではない、という態度です。

  この場合の「学びたい」という言葉が、非常に「文系の作文」(と私はあえて言います)だと感じます。ただ「勉強したい」だけならば、地域住民に開放されている大学図書館はたくさんあるし、科目履修だってできるし、なんなら大学の授業はモグることもできるし、という反論が成り立ちます。

「大学に進学したい」の動機はひとつではないはずです。それは、「学生という身分を保証されたい」かもしれないし、「学士(四年制大学)卒の資格がほしい」かもしれないし、「第一線の優れた研究者と出会いたい」かもしれません。それを「学びたい」のひとことで片づけてしまうのは、なんだかマララさんのノーベル平和賞を彷彿とさせるものがある(いたいけな少女が教育と女性の権利を訴える姿に西欧の人はめっぽう弱いようです)。

 それぞれの場合に、どの程度まで奨学金のリスクを背負う必要があるか、背負う価値があるかというは、個々人の価値判断にゆだねられていると思います。

 ただ、先の反論に野暮を承知でツッコミを入れるなら、人間は大海原に放り出されていきなり泳げるわけではありません。大学の教室も図書館も全部出入り自由にしたから好きに勉強していいよ、と言われて勉強ができるものではないのです。勉強するには、勉強する方法を知る必要があります。そしてそれは、やっぱり大学に「在籍」することでしか学べないと思うのです。

補足:マララさんのノーベル平和賞が必ずしも「正義」ではないことについてもっと知りたい人は、このブログを参照してください。

earclean.cocolog-nifty.com

 

奨学金問題を社会学的な視点から捉えるということ

 私は身近に奨学金問題のわかりやすい「被害者」がいるので、つい同情的になってしまうのですが、以前に見かけたこのツイートもすごく印象に残っています。

 

  実際に奨学金を借りた人で、この手のツイートを苦々しい想いで見ている人というのは、「自分はそんなリスクは百も承知で奨学金を借りたのだ/わかっていたから借りなかったのだ」というものだと思います。

 私も一度、家にお金がないということとは別の文脈で、もう親に依存したくないから奨学金を借りたいという相談を友人にしたところ、「こゆきの成績なら給付型の奨学金をもらえるよ」とアドバイスされたことがあります。

 そうです。学費免除も、特待生入学制度も、給付型奨学金も、探せば世の中それなりにあるのです。

 しかし、私が自分の周囲を見渡している限り、これらの制度にたどり着けている人というのは、みんなそれなりに情報リテラシーの高い人たちだという気がします。言い換えれば、学費免除や、特待生制度や、給付型奨学金が十分衆知されてないがゆえに、奨学ローンに手を出している実情が確実にある。

 奨学金(奨学ローン)安易に借りて後から返済の苦しさを訴える人も、学費免除や特待生制度にたどり着けない人も、そうでない人たちから見たら「考えが浅はか」ということになるのだと思います。

 自分より考えが足りない人を「浅はかだ」と切り捨てるのはとても簡単です。個人レベルでは、そうやってどんどん他者を切り捨てていくことも許されることだと思います。

 しかし、私は社会学を専門としているのであえて強調したいのですが、社会があって、そこにある程度の数の人間がいる場合、「思慮の足りない(ように見える)人」というのは、不可避的に一定数存在するものなのです。ある問題を社会問題として捉えるなら、そういう人たちも社会には不可避的に存在することを前提にして議論を進めなければならない。

「思慮の足りない人」がもっと深く考えるように導かなければならない、というなら教育改革が必要だ、という話になります。あるいは、そういう人たちが学費免除や給付型奨学金の情報にたどり着けるようにするのならば、情報の非対称性を解消するようなシステムを作らなければならない、という話になると思います(私には後者のほうが有効に思えます)。

 

⑶学校で勉強することは『自由』になるということ

 教育ってなんのためにあるのでしょうか。私は『自由』を手に入れるためだと思います。

『自由』ってなんでしょう?

 お金がたくさんあって、欲しいものがすべて変えることでしょうか。校則や親の干渉などの、一切の分の行動に制約をかけるものから解放されることでしょうか。私はどちらも違うと思います。

 真の『自由』とは「なにごとも自分の頭で考え判断する理性を備える」ことだと思います。そしてそれは、一朝一夕に身につくものではありません。きちんと訓練しなければなりません。そういう意味でも、もっと現代的な言葉で言うなら「メディアリテラシー」を身につけるために、教育というものはあるのだと思います。

 そしてこれは何も私の個人的な考えではなくて、フランス共和国が「学校」を他とは違う聖なる場所として捉えていることの根拠になっています。

参考文献:

www.amazon.co.jp

 

⑷日本の大学の現状を考える

 では、奨学金の話に戻って、実際に日本の大学にどれくらい進学する価値があるのか、という話です。

 まずここで、俗に言われる「Fランク校」の定義をはっきりさせておきたいと思います。「Fランク校」とは、なにも偏差値の低い大学を総称して言うのではなくて、定員以下の入学者しかいない学校を指します。

 具体的な例を出すなら、私が去年まで在籍していた短期大学がそうです。私たちの代で125人の定員に対して83人の入学者しかいませんでした。Fランク校に2年間いた者として率直な感想を言わせてもらうなら、Fランク校の就職や進学の状況は

正直かなり厳しいです。

 私は、今の日本の大学をめぐる閉塞した状況の背景には、大学が就職予備校と技術者学校と学術研究機関の3つの役割を「大学」の名の下に一手に引き受けていることがあると思います。

 私は現在、東京外国語大学に在籍しています。東京外国語大学は、しばしば秋田の国際教養大学と引き合いに出されます。国際教養大学を知らない人のために解説すると、「三言語主義」(母語+英語+もうひとつの外国語を卒業までに全員に身につけさせる)ということを掲げていて、秋田県にあるにも関わらず、驚異の就職実績を誇っています。

三言語主義・国際教養大学について:

国際教養とは | 公立大学法人 国際教養大学

国際教養大学の就職実績:

卒業生の主な就職・進学先 | 公立大学法人 国際教養大学

 誤解をおそれずに言い切ってしまうなら、彼らは就職予備校だと思います。そして、同じ語学の学校でも、半数以上が製造や商社に就職する国際教養大学とは対照的に、東京外国語大学の卒業生は、外務省だったり新聞社だったり、卒業後もなんらかの形で「専門の勉強を続ける」道が選ぶ傾向が強く、だから私は東京外国語大学国際教養大学に全然負けてないと思っています(あくまで個人的な意見です)。

 これに限らず、就職実績を上げるのに必死な私立学校は就職予備校化しているところが多いですね。

 就職予備校と学術研究機関としての大学はわけるべき、というところまではわかっていただけたと思います。私がそこへ更に、技術者学校としての「大学」もわけるべきだと考えるのは、理系の実情を見ているからです。社会に出て技術者として働くために必要なスキルを身に着けることと学術研究をすることは必ずしも一致せず、結果両方とも中途半端になっている実情があると思うからです。

学術研究機関」としての大学の必要性は、大学で"真面目に"勉強した人には、あえて説明する必要もないですね。自然科学も、人文社会科学も、人類の智の蓄積のために、むろん研究を続けなければなりません。

「就職予備校」「技術者学校」「学術研究機関」がなんらかの形で分業されれば(もちろんこんなネーミングはストレート過ぎて受け入れられないでしょうが)、それぞれの目的意識を持った人が、それぞれの人生プランに合った道を選ぶことができるし、借りたくない奨学金を借りて無理して「大学」に行く必要もなくなるのでは、と思います。

 蛇足ですが、Fランク校の状況は確かに厳しいけれど、私は短期大学時代の2年間を、そういうことを知ることができたことも含めて貴重な2年間だったと思っています。

 

 

⑸青少年の自立の問題

 私が非常に深刻に考えている問題のひとつに、「毒親とメンタル失調の問題」というものがあります。ルポライターの鈴木大介さんが書いていることです。

wotopi.jp

 簡潔に言うならば、悪い親の元に生まれたがために心を病み、心を病んでいるからアルバイトもままならず、お金がないので親と同居で実家に住み続け、その結果もっと心を病んでしまうという悪循環の中にいる人のことです。

 一見、奨学金問題とはなんの関連もなさそうですが、私が言いたいことは、「青少年が18歳になったら子どもが親から自立できることを保障する」ことの大切さです。毒親のもとに生まれても、大学に通うために親に学費を出してもらい、実家に住み続けざるを得ないなら、メンタル失調も悪化する一方で、下手したら働けないレベルまで心を病んでしまうかもしれません。

 そして、この「18歳になったら子どもが親から自立できることを保障する」ことが、この「毒親とメンタル失調の問題」を解決できる唯一の方法だと私は思っています。そして他の先進国では、これをきちんと実現しているところもあるのです。

 

⑹日本が先進国でありつづけるために

 最後に、私がそれでも「奨学金」問題を社会問題として提起し続ける理由です。

 日本が他の先進国に比べて、教育関連予算が低いことはよく知られていますね。詳しい分析記事を見つけたので、少し古い記事ですが載せておきます。

synodos.jp

 たとえなにがあろうと、他の先進国のように、大学が無償だったり給付型の奨学金が充実していたりという環境を目指すことを、私は「建て前だけでも」絶対に放棄してはいけないと思うのです。日本が先進国でありつづけるために。

 先進国の定義ってなんでしょうか?OECDに加盟することでしょうか。

 日本はどのあたりが先進国なんでしょう?欧米列強といっしょに「大日本帝国」になったから?それは第二次世界大戦までの話です。工業大国だから?それは20世紀までの話です。

「21世紀の先進国」のあるべき姿とは、たとえば大学に無償で行けることであったり、LGBTの人たちにとってもっと住みよい世の中を作ったり、重大な人権侵害である死刑制度を廃止したりすることではないでしょうか?

 今の日本の教育水準やジェンダー環境や人権意識は、果たして他の先進国と肩を並べられるものでしょうか?

 日本が21世紀も先進国であり続けたいと願うなら、貧しい人が貧しいという理由で大学に行くことを諦めるような状況を、放置し続けてはいけないと思うのです。

 

 私の友人のこの言葉を引用して、このブログを締めくくりたいと思います。

 

 少々脱線もしましたが、書きたかったことをすべて詰め込むことができました。

 誤解をおそれずに書いた部分もあるので、もしかして表現によっては不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。お詫び申し上げます。

 最後までおつきあいいただいて、ありがとうございます。

日本における自殺をめぐる状況

 寝れないついでに、もう1本ブログを。

 基本的には、おとついくらいにTwitterに上げたデータの再掲です。

 

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 日本人の人口比率と、自殺者に占める割合の比較。20-29歳では、人口に占める割合が10.71%、自殺者に占める割合が10.29%なので、まぁ同じくらいかな、と。人口比率に対して最も自殺者が多いのは50-59歳で、いわゆる管理職の人たちの世代。

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 同様のデータ。警察庁の「自殺統計」と、平成22年の国勢調査の結果を一緒に集計したもの。

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 今度は、自殺者数の推移。出生コーホート別の検証ができればもっといいんだけど、ここではAge Group別で。減少しているのは、60-69歳と70-79歳。

 20-29歳などの若い世代では横ばいという結果に。

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 自殺の原因・動機を、警察庁のデータをそのまま円グラフにしたもの。正直、自殺というのは複合的要因で起こるので一概には言えないが、「名目上」はこうなっている、ということで。

 

 前の記事と合わせて考察すると、OECD諸国で比較したときには日本は「若者の自殺」が多い国だけれど、国内に目を向けると、それ以上に深刻な「生きづらさ」を感じている世代がある。

 言い換えれば、日本自体が「自殺の多い国」で、その傾向が若者世代にも現れている、と言えるかもしれない。