読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

毒親ってなんだろう

 最近、ネット上で「毒親」関連のコンテンツをよく見かける気がします。その多くのものは、毒親のもとで幼少期を送った人が自分自身の経験をブログやマンガで発信する、というものです。わたし自身も「毒親育ち」との自覚があり、そういったコンテンツはついつい読み入ってしまいます。

「毒親」関連のコンテンツはたくさんありますが、ここではひとつだけ紹介しておきます。この「毒親告白に対する反応例」は、多くの毒親育ちの人が共感するところではないでしょうか。

 

 その一方で、最近はこんなことも考えます。毒親の定義ってなんだろう?

「毒親」という言葉を最初に使った人はスーザン・フォワードという人だと言われています。彼女の著書『毒になる親』が由来だそうです。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

 

 最初に断っておきます。わたしはこの本をまだ読んでいません(笑)。いつか読みたいと思っているけれど、今のところは読む時間が取れません。

 問題の提唱者の原典にも当たらずに問題を論じるなんて、アカデミズムの世界では許されない行為ですが、ここはブログなので大目に見ていただくとして、わたし自身の経験や、わたしの身の回りの事例から「毒親の定義」を考えてみたいと思います。

 

「毒親」経験の中身は、実に様々です。親が子どもに暴力をふるう、という例はわかりやすいですが、そんな明らかなケースはそれほど多くないように思います。それよりも圧倒的に多いのが、親がその言動によって子どもを精神的にジワジワと追い詰める、というケースです。

 メンタルを追い詰める系の「毒親」にも、どうやらいろんなパターンがあるようです。親自身が何かの精神障がいや発達障がいを抱えているパターンや親自身も虐待されて育ったパターン。親が(カルト)宗教やギャンブルにハマっているパターン。ある特定の(あるいはあまりに古い)価値観を押し付けてくるパターン。過干渉してくるパターン。そうではなくて、兄弟の間で明らかに扱いが異なる(お姉ちゃんばっかり優遇するとか)や、夫婦間に問題があり子どもがそのスケープゴートになっているパターン、等々、具体例を挙げればキリがないと思います。(なお、精神障がいや発達障がいを持った親が毒親になり得るという話は、彼らが悪であることを意味しません。念のため。)

 

 しかし、ここからがこのブログの本題なのですが、「毒」というのは裏を返せば「薬」でもある――という言葉の通り、「毒親」に分類されるものも、ある場面では、あるいはある人物にとっては、薬になる、と思うのです。

 結論を急がないでください。だからってあなたの毒親体験が「なかったこと」になるわけではありません。むしろ、「毒親」が定義不可能だからこそ、わたしは「毒親」に対して最もラディカルな定義を提唱したい――というのがこのブログの狙いです。これについては後述します。

 

 まずはわたし自身の経験について書きます。わたしは、長く自分の親が毒親だと思ってきました。実際、母や父の言葉に深く傷ついたし、成人になる前に精神安定剤の手放せない身体になりました。ずっと父と母のことが大嫌いでした。

 そんな親とわたしの確執を、ある程度まで解消させてくれたのは、ハタチのときに付き合ったボーイフレンドでした。わたしが付き合ったボーイフレンドは、「今どきこんな考え方の人がまだいたのか!」というほどの保守的な、家父長的な世界観――家族の中では父親がいちばん偉くて、兄弟の中では長男がいちばん偉くて、親は弟が兄を(妹が姉を)尊敬するように育てるのが正しい育て方である――というような、「三丁目の夕日」的な世界観の中で生きている人でした。

 彼が強固な「家族はこうあるべきだ」像を示してくれたおかげで、わたしは自分の家族を客観的に見ることができるようになったし、自分の家族のどこがおかしいか気づくことができた。わたしの家族問題の解決はそこから始まったのです。

 でも、保守家族観って、毒になるパターンもあると思いませんか?「ウチの親はなんて考え方が古いんだろう」と「ウチの親は正しい家族の在り方を教えてくれた」はこの場合はコインの表と裏で、わたしのボーイフレンドはたまたま後者だったにすぎません。

 これは「宗教」や「過干渉」についても言えるのではないでしょうか?例えばへヴィーなクリスチャンの家庭に生まれた場合、その事実を呪う人もいれば、自身もキリスト教を深く信仰するようになる人もいるでしょう。あるいは過干渉も、「ウチの親はなんでも口出ししてきてウザイ!」と、「ウチのママは就職でも恋愛でもなんでも相談に乗ってくれて、親子というより友だちみたいなの」というのはコインの表と裏です。基本的に、ある人にとっては毒になり、ある人にとってはならない、ということに過ぎないように思います。(なお、程度の問題もありますし、あるいは関わり方の問題もあるかもしれません。また、毒親にならなかった場合でも、それが「良い」か「悪い」かは、心理学の本などで調べてください。わたしの少ない知識をここで書くのは控えます。)

 このようにひも解いて行くと、「毒親」というのは、その内容においては定義不可能のように思えるのです。

 

「実際に家で起きた現象」によって「毒親」を定義しようと試みる人もいます。「そうは言っても、月に1回警察騒ぎになるわたしの家が普通だとは思えない」とか「弟が3回も自殺未遂しているウチの親はやっぱり問題がある」というものです。

 でも「実際に家に起きた現象」で定義しようとすると、必ず、「いや、ウチは他の毒親家庭よりはマシなのかな…?」との思いがわいてきます。そして、「質」で比べ始めると、だいたい「極論」に行きつきます。わたしは、毒親メンタル失調の最底辺のひとつが、セックスワークに吸収されていく女性たちであるように思います。

 貧困に陥った若者を多く取材しているルポライターの鈴木大介氏は、貧困は「3つの無縁と3つの障がい」によって起こると言います。3つの無縁とは、「家族との無縁、地域との無縁、制度との無縁」、3つの障がいとは、「知的障害精神障害発達障害」です。そして、女性がその結果セックスワークに吸収されていく様子を彼のルポルタージュは描いています。

最貧困女子 (幻冬舎新書)

最貧困女子 (幻冬舎新書)

 

 

「ウチの親は人格否定の言葉は吐くけど、カルト宗教にハマってる親よりはマシか」とか、「わたしの親は暴力はふるうけど、家に経済的余裕があるだけマシか」などといった考察は(本人にその余裕がある場合は良いけれど、その余裕が出てくるのは確執を解決してからだいぶあとのことなので)、しばしば「毒親家庭の中では相対的に恵まれているのに、それごときのことで心を病んでる弱い自分」として、自分を責める動機になります。毒親育ちの子どもがそんなふうに自分を責めることは百害あって一利なしです。

 

 世の中でいちばん残酷なことってなんでしょうか。

 わたしは「そこにある痛みを無いことにする」ことだと思います。

 例えば上に貼ったツイートのように、毒親告白に対して「考えすぎではないのか」とコメントする。あるいは、ある苦労をしている人に対して、「もっと苦労している人もいるのだから」とコメントする。あるいは、さっきも書いたように「暴力はふるうけど、経済的には困ってないから…」と言って、自分の心の痛みを過小評価する。

「そこにある痛みを無いことにする」例をもうひとつあげます。

 それは、「経済的に苦労したことが無い人は何を言っても甘え」というような圧力です。心を病んで精神科に何年も通院している人に対して、「アルバイトでもして経済的にもっと苦労したら、うつ病なんか治るのではないか」と言い放つ人がいます。これも、「そこにある痛みを無いことにする」例だと思うのです。「毒親」家庭が必ず経済的にも困窮しているなんて法則はありません。お金は稼ぐけどヒドイ親、というのはいくらでもいます。

 

 では、「毒親」は如何にして定義可能か。

 わたしは、「子どもが毒だと思ったら毒親」という定義しかないように思うのです。

 同じ状況でも、毒にも薬にもなり得ることは、すでに検証しました。また、その「質」で比べると「極論」に行きつくことも検証しました。そして、「そこにある痛みを無いことにする残酷」を避けようとするならば、この定義を採用するしかないと思うのです。

 あなた自身が、あなたの心が親によって傷つけられたと思うなら、その親は「毒親」です。

 この定義も多くの問題を孕むでしょう。でもまずは、自分は傷ついているんだと認めてあげてください。そして、今日まで一生懸命生きてきた自分を褒めてあげてください。他の人のことを考えるのは、そのあとです。

 

「そこにある痛みを無いことにする残酷」についての、鈴木大介氏のツイートを貼ってこのエントリを締めくくろうと思います。

 

 

 

 

 この世の中でいちばん残酷なことは、そこにある痛みを「無いこと」にすること――これはわたしが繰り返し考えてきたテーマであるし、生涯を通して考えていくテーマだと思います。

自殺したいと思っている君へ

 連日心が暗くなるニュースが続きますね。特に相模原の事件は、多くの人にとって衝撃だったと思います。

 そしてまったく個人的なことですが、先日わたしにすごく良くしてくれていた先輩が自殺しました。理由などはプライバシーがあるので伏せますが、それもわたしにとってはとても衝撃でした。日本は交通事故で死ぬ人よりも自殺で死ぬ人が多い…等、統計では知っていても、これだけ近距離にいて、顔も知っている、昨日まで会話していたような知り合いが自殺するのはわたしには初めての経験でした。そして、誰かが自殺するというのはこんなにもDepressingなことなのかと思いました。

 わたし自身、「死にたい」と思うことはよくあります。実際に口に出してその気持ちを表現することもあります。夜寝る前に、このまま眠りについて永遠に目が覚めなければいいのにと何度思ったかわかりません。

 でも最近思うことは、「死にたい」の根底にある「生きづらさ」は、ある程度まで解消可能だということです。もちろん、「死にたい」気持ちの渦中にいる人は、まわりがまったく見えません。まわりが見えない中で絶望して死んでゆくのです。このエントリは、そんな「まわりがまったく見えない」「ただただ死にたい」人に、ちょっとでも「生きづらさ」を解消するヒントをつかんでもらえれば、という意図で書いています。

 

死にたいと思ったときにすること①:

 自分がネオリベの論理を知らず知らずの内に内面化していないか自分に問いかけてみよう。

 

 難しい言葉がいくつか出てきましたね。わかるまで調べましょう(笑)

 ネオリベ、とはネオ・リベラリズムのことです。日本語では新自由主義と言います。色々な定義の仕方がありますが、要するに、「市場原理こそ最強である」とする考え方のことです。政府の介入を極限まで排除し、マーケットでの自由な競争を保証することで、より良いものが出てくる。この世界に不必要なものは競争原理に従って自然淘汰される。そしてわたしたちに本当に必要なものや、人々により強く求められるものだけが残ってゆく――そうして世界は良くなる、とする考え方のことです。一方で、ネオ・リベラリズム成果主義や拝金主義に偏る、という側面もあります。競争では成果を出したものこそが勝者だし、より多くお金を得ることが正義だからです。

 次に「内面化」という言葉を解説します。英語ではinternalizationと言います。「内在化」と訳されることもあります。元々外にあった考え方を、自分の中に取り入れて、自分の考えのようにしてしまうことです。

 では、「自分がネオリベの論理を知らず知らずの内に内面化していないか自分に問いかけてみよう」という問いに戻ってみましょう。何の能力もない自分なんて死んだほうがいい、と思っていませんか?自分は生きていても他人の足手まといになるだけだから、他人に迷惑をかけるだけだから、ここにいる価値がない――そんなふうに考えていませんか?

 でも、その「価値」って、新自由主義によって規定された「価値」――より強く、よりお金を生み出し、より多くの人に必要とされているものだけが残ればいい――じゃないですか?

 少し勉強すればわかることですが、新自由主義というのは、批判も強いです。新自由主義的な考え方は、社会的弱者を排除していくからです。(今のシステムの中で)より強く、より多くお金を生み出すものだけが残ればいいのなら、相模原の障がい者たちは、殺されて良かったということになってしまいます。殺された相模原の障がい者たちがかわいそうだと思うなら、その理論はあなたにも適用できるはずです。あなたも生きてて良いのです。

 まず、自分がネオリベの論理を内面化していることを自覚する。その上で、ネオリベに対してどんな批判が出ているかよく調べてみる。それだけでも、どうして自分がこんなに「居場所のなさ」「生きづらさ」を感じているか、理解できるはずです。

 

死にたいと思ったときにすること②:

 心理学の本を読んで勉強をしよう。

 

 これは、わたしが実際にやってみて非常に有効だった方法です。

 死にたい、と口にすると、多くの人は精神科や心療内科の受診を勧めてくるでしょう。実際、わたしも何年間も精神科にお世話になっています。

 でも、率直に言って、今の日本の精神医療はとても悲惨な状況だと思います。家から通える範囲の精神科に行って、正しい診断をもらえる確率がとても低い。ただ薬だけ出せばよいと思っている精神科医も少なくない(もちろん真面目に仕事をしている人もいます)。カウンセリングも同様で、ただのカウンセラーとの「雑談」のようなものを「カウンセリング」と呼んでいるクリニックも少なくない。精神科を変えたりセカンドオピニオンを求めたりすることはもちろんできますが、精神科を変え自分にあった医師を探すというのは、わたし自身も経験したのでわかりますが、とてつもなく労力のいることです。多くの人は自分にあった医師を見つける前に疲れ果ててしまうと思う。

 精神科に行くな、と言っているわけではありません。でも、現状の日本の精神科に多くは期待できないと思います。

 そこでわたしが代わりにオススメすることは、本屋さんでとにかく心理学や精神医療の本を買って読むことです。病気の診断はどのような基準で行われていて、世の中にはどんな治療法があるのか、とにかく知ることです。

 東京にお住まいの方には、神保町の三省堂本店の5階の心理学コーナーが断然オススメです。まず行って、気になるものを手に取ってみましょう。

 東京に行くのが難しいかたは、家から行ける範囲のターミナル駅の、なるべく大きな本屋さんで探してみてください。とにかく選択肢が多い方が良いです。心理学の本だけで、棚が2つ以上あれば理想的です。

 読んでいけばわかりますが、エビデンス(科学的根拠)のある心理療法の多くは、それほど難しいものではありません。もちろん理想は精神科医臨床心理士の指導のもとでそれを実践することだけれども、エッセンスを理解して自分のできる範囲で自己流で実践してみるというのも、できない相談ではありません。世の中には「生きづらさ」を抱えてる人がたくさんいて、それに対処するための「自分助け」マニュアルが山ほどあります。自分に合った「自分助け」の方法を探して、是非実践してみてください。

 ここではいちおう、おそらくいちばん有名な心理療法の自習帳を挙げておきます。

こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳

こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳

 

  

 自殺したいと思ったときに、やってほしいことは、今言ったふたつのことだけです。ネオリベの論理を疑ってみる、そして、自分で自分を助けられるようになる。

 問題がなにも解決してないじゃないか――と反論するかたもいるでしょう。自殺したいと思ったきっかけが何かの挫折――例えば失恋したとか、就活で失敗したからとかだったら、これらを実践したところで恋人は戻って来ないし、内定がもらえるわけでもない。

 でも、とにかく無限に自殺を考えるループからは抜け出せると思うのです。そして、ある程度自分のことを肯定できるようになったら、次のアクションを起こす元気が出てくるはずです。逆に、無限に自殺を考えるループにハマったままなら、そこから動き出すことはできません。だから、とにかくそのモードを抜け出してほしいのです。問題解決は、そのあとです。

 

 最後に、心理学の本ではないけれど、わたしが「生きづらさ」を解消するのにとても役立った本を載せておきます。

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

  

「死にたい」と考えることは誰しもあります。でも、本当に死んでしまう前に、すこしだけ「生きづらさ」を解消することを試してみませんか?

 

世間が面白くない時は勉强に限る。失業の救濟はどうするか知らないが個人の救濟は勉强だ。— 関口存男 (@sondern_bot) 2016年6月5日

 

 そう、個人の救済は「勉強」です。

「想像力の欠如」問題についてわたしが思うこと

 わたしが2,3年前から「推し」ている、ルポライターの鈴木大介氏の東洋経済の連載が、先日ネットで大きな反響を呼んでいた。貧困報道の「解釈」をめぐる記事だ。

toyokeizai.net

 わたしもアカデメイアの端くれにいる人間(自称)なので、「出典」を大事にしたいけれども、リンクを貼ったところで読まない人は読まないので、重要だと思うポイントを書き出す。

 タイトルのとおり貧困報道を「トンデモ解釈」で受け取る人がいる――という記事で、それは例えば「こんな若者が日本にいるはずない!」「これは俺が知っている貧困じゃない!」というものだったり、お腹を空かせた少年が万引きしていると聞いて「防犯に役立てます!」と言ってしまうような「解釈」のことだ。

 

 一方で、「トンデモ解釈」をする人の気持ちもわからなくはないのだ。

 

 父親とこんな会話を交わしたことがある。

 私は身近に「奨学金(奨学ローン)」問題のわかりやすい「被害者」がいるので、いつもこの問題を他人事として見れないし、ついついニュースを追いかけてしまうのだけれども、そんな中で最近は奨学金を借りている男子学生との交際を親に「禁止」されている女子大生がいる、という記事を目にした。

特集ワイド:お金ないから大学行けない 国立でも授業料年54万円、40年前比15倍 - 毎日新聞 

http://mainichi.jp/articles/20160204/dde/012/100/005000c

 交際から結婚に発展した場合に、高確率でワーキングプアに陥るからだ。

 もちろん恋愛は本人たちの自由意思で行うのだから、親が交際を禁止するのは子どもに対する過干渉だ――という反論は成り立つし、実際そうだろう。でも、まだまだ「家族」規範が強い日本で、娘の交際相手に口を出し、奨学金を借りている男子学生との交際を「禁止」する親がいたとしても、なにも不思議ではない。

 しかし、この話を父親にしたところ、苦虫をかみつぶしたような顔をされ、「日本ももう未来がないね」とひとことだけ言って話題を変えられてしまった。

 そのときの父親に対してわたしが感じた奇妙な違和感――父親をdisるつもりはないけれど、この問題を「自分が生きている社会の問題」として受け止めていない――という感覚を、わたしは折にふれ様々な場所で感じる。そのときにわたしが相手に感じるのは、「無関心」というよりも、「現実が重すぎるから受け止めたくない」という感覚に近い。

 

 そう、「底辺なんて知らねー、俺だけが幸せならそれでいいんだ!!!!」という人を除いて(そういう人も知り合いに何人かいるけども)、多くの「善良」な人にとっては、貧困報道は、「かわいそうだとは思うけども、解決策も思いつけない自分」に居心地の悪さを感じさせ、結果それから逃避したくなる性質のものなのではないか。

 

「わたしは逃避しない度量の持ち主だ」と言いたいわけではない。わたしだって逃げたいのだ。わたし自身、大学を中退したり入りなおしたり、メンヘラクソビッチをやったり引きこもりやってた時期があったり、普通の人よりは少し多くの世界を見たかもしれないけど、自分は恵まれていると強く自覚しているのだ。日本の格差社会の上から下まですべてをスケールに含めたら、わたしが見た世界なんて「誤差」の範囲におさまってしまうものかもしれない(それでも、階級間で価値観が「断絶している」と感じたけども)。

 この問題を考え続けて、ある日わたしは大学で、自分が受けていた講義の先生に向かってこんな質問をしたことがある。

 

「社会科学系の研究しているとお腹痛くなりませんか?」(原文ママ

 

 貧困問題に特にこの特色が強いけども、他の問題でもいい。例えば、東アジアで女性に子育てと介護の負担が集中しているという問題を発見して、じゃあ外国人家事労働者を受け入れよう!(そういうことを政策的にやっているところもある)と思ったとしても、外国人家事労働者は目下深刻な人権問題を抱えていることがすぐにわかり、「日本だけが豊かになればいい。他の国の人の人権なんて知らねー」と割り切れるメンタリティの持ち主でない限り(そういう人もいるけども)、外国人家事労働者の受け入れ議論にだって与することはできなくなる。

 

 社会科学系の研究/勉強を続ける限り、この「無力感」から解放されることはないのだ。

 そして、ハッキリ言って、この「無力感」は、たいへんに「しんどい」。

 ひとつの事実を知って胃が痛み、その解決策を調べて、その解決策が抱えている問題を知って胃が痛み、何もできない自分の無力さに胃が痛み……胃がいくつあっても足りないほど「胃が痛い」作業なのである。

 上記の質問を先生に投げかけたのは大学3年の秋で、院試を受けようか就活をしようか悩んでいた時期で、わたしが自分が「研究者になれない」と思うのは、この胃痛の無限連鎖に耐えられない気がしたからだ。もっと身も蓋もない言い方をすれば、研究成果を出す前に、自分がノイローゼになってしまうと思ったのだ。

 

 そんなわたしの思いを、代弁してくれてるブログ記事があった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

「想像したいものしか想像したくない」「でも私のことはわかってほしい」という想像力のダブルスタンダード――これこそ私の中をずっと悩ませていたものの正体であり、わたしが引き裂かれそうになっている矛盾でもある。

 

 わたしが今日このエントリを書いているのは、社会科学系の研究者になりたい人をディスカレッジするためではない。わたしは「社会科学系の研究しているとお腹痛くなりませんか?」問題の、間接的ではあるけども、「答え」を見つけたのだ。

 それが、この本に出てくる「ジャッジメントアセスメントを区別する」という考え方だ。

www.amazon.co.jp

 この本自体は精神医療に携わる人向けに書かれた本で、特にPTSD治療について書いてあるのだけれども、そこで用いられている「ジャッジメント」「アセスメント」という概念が、学術研究にも応用できるように思う。

ジャッジメント」は、受け手(精神医療の現場なら医者、社会科学の現場なら研究者)の主観的判断のことだ。一方、「アセスメント」とは、事象そのもの(精神医療の現場なら病状、社会科学の現場なら社会現象)の評価だ。受け手の個人的体験やその日の気分に大きく影響を受けるのが「ジャッジメント」で、「アセスメント」は他の人物が同じ手順を踏んで同じ解析をしたら同じ結果にたどり着くという性質のもの、と考えるとわかりやすい。

 この本では、「PTSD患者の支援に携わる人は燃え尽きやすい」ということも書かれている。人間はやはり、圧倒的事実の前には立ちすくんでしまう生き物であり、それは(誤解を恐れずに言うならば)「悪いことではない」のだ。

 つまり、社会科学に話を戻すと、研究を通して行わなければならないことは正しい「アセスメント」であり、「ジャッジメント」ではないということだ。そして、これは考えてみたら当たり前のことなのだ。人文社会科学ではときとしてそれがわかりづらいこともあるけれど、「再現性の保証」というのは自然科学の最もベーシックな考え方のひとつだ。

 

 でも、研究はそういうスタンスでやるとしても、研究を続けるモチベーションはやはり別に必要で、それが(時として本人の胃が痛くなるような)「正義感」であることも確かだろう。

 社会科学の研究者になる覚悟をするならば、この「胃が痛い」と「でもやらなきゃ!」の間を、危ういバランスを取りながら行ったり来たりするしかない――少なくとも、現段階でわたしが持っている答えは、これだ。

 もっとも、大学の先生の中には、研究対象に対してすごく割り切った態度で臨んでいる人もいて(しかも、そういう人はえてしてものすごく優秀な研究者だったりする)、学生から見ると「ちょっと人としてどうなの……。」というような人もいなくはないけども。

 

 圧倒的事実を前に人間は足がすくむ生き物であり、「想像力の欠如」と呼ばれるものは、言い換えれば「ノイローゼからの自衛行為」でもあり、それは責められるべきものではないし、そういう人間を責めるべきでもない。見たくない現実と向き合い続けるということは、本当に「しんどい」のだ。それでも向き合いたいと思うならば、「ジャッジメント」と「アセスメント」を区別し、さらに自分がノイローゼにならないようにちゃんと「逃げ道」も作った上で向き合うしかない。

「想像力の欠如」(「欠けている」)と言うと悪いことのように思えてしまうけれども、それは人間の防衛本能からきているものであるように思う。大切なのは、それを「欠如」と批判することではなくて、人間の限界と向き合いつつも、それでも自分がしなければならないこと、したいこと――貧困報道の文脈で言うなら、貧困の「可視化」とか、社会保障の充実とか、社会への問題提起とか――をいかにして達成するかだ。

 

 この記事をシェアするのは、もう何回目かわからないけれども、私が鈴木大介氏を知って、彼をリスペクトするきっかけになった記事なので、何度でも貼ります。是非読んでください。

wotopi.jp

わたしと妹の性格がちがいすぎるという話

 今、母と妹と3人で話をしていて、「我発見せり」みたいな想いがあったので書き留めておく。

 今日は半日かけて大学院の研究計画書を書いていたのだけれど、6割程作ったところで、本当に私は今年大学院を受験するのだろうか…という想いが出てきてしまい、グダグダ悩んでいたら、妹が言い放ったひとこと。

 

「期日までに書類の作成が間に合ったら受験する、間に合わなかったら受験しないじゃダメなの?」

 

 なるほど。人生なんとかなると思っている人間はこういうスピリットで生きているのである。それに向かって、「間に合わせると決めたら絶対に間に合わせるのがお姉ちゃんなのよ」と母。さすが母は私のことをよくわかっている。

 

 そして、書類を出したら、夏休みは丸々院試の勉強をしなくてはならないよね、という話に。私は3月~4月中旬まで就活(結果は出せなかったけど)がんばりすぎて派手に体調をくずしてるので、また院試の勉強のしすぎで身体を壊すんじゃないか、そして真剣に勉強して落ちたらまたノイローゼになるかもしれないよね、という話で、妹が言い放ったひとこと。

 

「30%くらいの気持ちで勉強して、それで落ちたらああやっぱり、受かったらラッキーじゃダメなの?」

 

「私は就活でも100%の本気でエントリーシート書くから燃え尽きるのかね」と私が言ったら、「あなたのは100%じゃなくて200%でしょ」と母。妹は先日留学から帰ってきたばっかりで、ちょっと前までヨーロッパにいたのだけれど、「私はパリで飛行機がディレイしたときに、いつ飛ぶかわかんない飛行機を待ちながら空港で超テキトーにインターンのES書いてたわ」

 なんていうか、鬱にならない人間というのは常にこういうメンタリティで生きているのだなと思った。

 

 表面だけ見ると、私は真面目な優等生で、妹はちゃらんぽらん、に見えるかもしれないけど、実際は私みたいな人間は早々にメンタル失調になって、妹みたいな人間のほうがちゃんと就職してちゃんと自立したりするから、世間の言う「真面目が美徳」なんてクソくらえ。

自己責任と"コジンシュギ"

 眠くてブログなど書けないと言いつつ、ひとつ書き留めておきたいことを思い出したので。

 

 昨年度の冬学期に受けた社会学系の集中講義の授業で、その授業の先生と「真の『個人主義』とは何か?」という話をした。

 日本社会では、何かというと「自己責任」論が出てくる。例えば、その集中講義をやってた当時ネットをにぎわせていた「奨学金」問題然り、外国で日本人ジャーナリストが拘束されたときの世論然り、「奨学金は自己責任で借りるのだから返済が苦しくても自己責任だ」「そのジャーナリストは自己責任でシリアに行ったのだから、危ない目にあっても自己責任だ」――本当に嫌になるほど、何もかもを個人の責任に還元しようとするのがこの国だ。

 この「自己責任」論は、西欧的な個人主義の考え方と日本人がもともと持っている性質が悪い形で合わさって生まれたものだ――みたいな仮説を当時の私は持っていたのだけれど(もう細かくは覚えていない)、ともかくそれはまちがいだ、ということがその先生と話している中でわかった。

 日本社会に渦巻く「自己責任」論は、「とにかく自分ひとりで出来る以上のことはするな」という考え方で、それは真の『個人主義』とはほど遠い――というのが、その先生の意見だった。その先生は医療社会学を専門にしているのだけれど、この「自己責任」『個人主義』の定義を採用してしまうと、障がい者などは「何もしてはいけない」ということになってしまう。そうでなくて、障がい者が「自分の意志で」「自由」に行動できるように適切なサポートを与えることこそが、「個人の尊重」であり、それこそが真の『個人主義』だろう、と。そして、これはもちろん障がい者に限らず、健康な人でも同じだ。

 

 なるほどなぁ、と思った。

 

 …と思ったら、そういうことを言っているのは何も私とその先生だけじゃなくて、何年も前に優れた先行研究が出ていた。『変貌するアジアの家族――比較・文化・ジェンダー』(2004、昭和堂)の中で、ケント・ポーリンというイギリス人の日本研究の先生が、日本独特のこの『個人主義』を真の個人主義と区別して「コジンシュギ」として論じていた。

www.amazon.co.jp

 

 ともかく私も18歳か19歳くらいまでは、人生で起こるすべてのイベントの責任は私に帰属していて、だから社会に隠された悪を効率よく拒む方法を身につけることこそが大人になるということだ――という考えを持っていて、もしも大学中退を経験しないでストレートで卒業していたら、そう思ったまま卒業していたかもしれない。だから、18歳から22歳までの4年間、という時間は(特に人文社会科学の)学問の意義に気付くにな、あまりに時間が足りないし、あまりに若すぎるよなあと思う。私は大学生活の5年目くらいにようやくそれに気づいたけど、普通の大学生は大学5年生にはならないのだ。

 この自己責任論にハマっていった結果、私は「人生は一度の失敗も許されないなんてあんまりじゃないか」と思うようになり、病み気の頃はそんなことばかり考えていたのだけれど、そうじゃなくて、社会はもっと希望あるものに変えられる、というのを私に教えてくれたのが人文社会科学だ。

  そう、「個人の救済は勉強」なのだ。

新大学1年生に伝えたいこと

 こんばんは。

 この時期になると、「大学新入生に伝えたいこと」という趣旨のブログ記事が増えますね。別に大学1年生じゃなくても役に立つことが多く、私も興味深く拝見させていただいております。

 一方で、いつも感じることがあります。それは、「これって、結局文系か理系によって違うし、大学の偏差値によっても違うんじゃないの?」ということです。

 例えば、「大学時代はたくさん本を読め」というのは100%正論なのですが、私の知っている理系の人の中には「活字アレルギー」とも呼べるような人たちがいて、彼らに読書することを要求することは難しそうです。あるいは、例えば相手が東京外大の新入生だったら、「たくさん旅行に行ったほうがいいよ」とアドバイスするのですが、これは東京外大だから言えることであって、学費は奨学金を借りて、定期代や教科書代は自分のバイト代で払って…みたいな学生が大多数の大学で「旅行に行くこと」を推奨しても、彼らにはそんな資金力はありません(親の経済所得と子どもの学歴に相関関係があることは、多くの教育社会学者の先生方が指摘されている通りです)。

 というわけで、私が「大学新入生に伝えたいこと」というテーマでブログを書くなら、「人文社会科学系」の「国立大生」に伝えたいこと、みたいなタイトルで書くことになるのかな、とも思ったのですが、もうひとつ別の挑戦をしたい気持ちもありました。それは、「大学新入生にとって大切なことは、文系か理系かによっても違うし、大学の偏差値によっても違う」ことを承知した上で、「それらの枠を超えて、すべての大学生に対して普遍的に言えるアドバイス」を考えてみよう!ということです。

 

 以前からブログを見ていただいてる方にはくどい話ですが、いちおう私の自己紹介を、履歴書形式で。

2010年 6月 Harrow International School Beijing(高校/中国北京)卒業

2011年 4月 東京理科大学 物理学科 入学

2013年 3月 〃 中退

2013年 4月 カリタス女子短期大学 入学

2015年 3月 〃 卒業

2015年 4月 東京外国語大学 国際社会学部 中国語専攻 3年次編入

2017年 3月 〃 卒業見込

 海外の高校を卒業して現役で理系で大学に進み、2年で中退して1年生から文系大学生をやり直している、と理解していただければ大丈夫です。春から大学4年生になりました。

 理系単科大学、文系最底辺、文系トップ校の3つを渡り歩いた私が、これら3つの場所で共通して新入生に言えることがあるとしたら何だろうか、と考えて以下書き進めて行きたいと思います。

 

 私が大学生に、大学生の内にやっておくべきことをアドバイスするとしたら、以下の3点を挙げると思います。

 

⑴「貯金するという感覚」を身につけておくこと

 みなさんの多くは、これからアルバイトをすることになると思います。私の友人の中にはアルバイトをがんばっている人が多くいて、学校と両立しながら月に10万円くらい稼いでいる人も少なくありません。

 私は学年が2年ダブっているので、同級生の中にはもう就職して社会人になっている人もいます。その中で気づいたことは、「貯金というのは練習しないとできるようにならない」ということです。大学時代に一生懸命バイトして毎月10万円以上稼いで、ブランド物の鞄を買ったり毎月ディズニーに行ったり、学生の内はそれでもいいのかもしれませんが、学生時代に毎月のバイト代をすべて使い切ってしまう習慣のある子は、社会人になって給料が増えても同じことをする傾向があります。給与が増えたからといってお金が貯まるわけではありません。「貯金するという感覚」を身につけておかなければならないのです。

 極端な話、卒業旅行とかで社会人になる前に一回使い切ってしまってもかまわないから、少ないバイト代でも、「貯金するという感覚」をみなさんには大学生の内に身につけてほしいと思います。

 

⑵「人生のメンター」を見つける

 これは私が言い始めたことではなくて、『20代 今あなたがやるべきこと』という本から着想を得たことです。

www.amazon.co.jp

 この本の中に、20代の内にやっておくべきことのひとつとして、「人生のメンターを見つけること」というのがあるのですが、最近「人生のメンターだと思えるような人」の存在の大切さをひしひしと感じているので、みなさんにお伝えしたいと思います。

「メンター」という言葉を辞書で引くと、以下のように出てきます。

 

メンター(mentor)

 優れた指導者。助言者。恩師。顧問。信頼のおける相談相手。ギリシャ神話で、オデュッセウストロイア戦争に出陣するとき、自分の子どもテレマコスを託したすぐれた指導者の名前メントール(mentor)から。

小学館デジタル大辞泉』より

 

 辞書に書いてある通りで、「自分の人生の顧問」あるいは「どんなときでもこの人の言うことなら信じられると思えるような相談相手」をメンターの定義としたいと思います。

 メンターのいる人間というのは強いです。形式にこだわる必要はありませんが、自分が「この人は私の人生のメンターだ」と思えるような、(できれば年上の)相談相手を大学時代の内に見つけられると、その後の人生の大きな助けとなると思います。

 私は幸いにして、自分の人生のメンターを見つけることができました ;)

 

⑶「どんな場所でも自分次第で有意義な場所にできる」と心得ておく

 みなさんの中には、第一志望の大学に合格して喜びに満ちあふれている人もいるかもしれませんが、実は多くの方はそうではなくて、第二志望、第三志望、あるいはすべり止めにしか受からなかった、という人もいるのではないでしょうか。そういった人の中には「自分は第一志望に受からなかったから、大学でしたい勉強ができないのだ」と言ってやる気を失くしてしまう人も多くいます。

 私自身がFランク大学に通った経験から100%断言できるのですが、どんな場所でも自分次第で有意義な場所にできます。私もカリタス短大の1年生の頃は、何度「こんな大学辞めてやる!」と思ったかわかりません。でも卒業する頃には、「カリタス短大の2年間は私の人生にとってなくてはならない2年間だった」と心の底から思うことができました。

 

 社会人にもなって学歴マウンティング合戦をしている大人たちは、高校3年生のときに第一志望に受からなかった自分を、4年間の大学生活を終えたあとでもまだゆるせていないのではないか、と感じます。4年間(短大はたったの2年間ですよ!)を実のあるものにして、第一志望の大学でないなりに何かを得たなら、「第一志望の大学には行けなかったけど、今はこの道で良かったと思ってる」と必ず言えるはずです。そして、自分の置かれた環境で得られる限りのものを得るのも、4年間をドブに捨てて学歴マウンティングをする醜い大人になるのも、すべては自分次第です。それだけしっかり心に刻んでください。

 

 最後に、私が読んだ大学新入生向けの記事の中で、いちばん役に立ったと思う記事を載せておきます。

d.hatena.ne.jp

 

 みなさんの学生生活に幸運がありますように!

 グッドラック!!

 

昨今のマスコミの倫理低下の解決策を考えてみた

 こんばんは。こゆきです。

「マスコミの腐敗」がネットでは大きなトピックですね。先日、藤原帰一先生がこんなツイートをしていました。

  文字にしてみると当たり前のことなのですが、こういうことを逐一リマインドしなければならないほど、現在の日本の言論をめぐる状況は混乱していると言えるかもしれません。

 

 私は身近に記者さんやマスコミ関係者が割と多くいるので、マスメディアのことを「マスゴミ」と言って批判することには同調できません。私の知り合いの記者さんの多くは、すこぶる真面目に仕事をしているからです。同様に、「読売は自民党の機関誌で、日経は経団連の機関誌で、朝日は社民党の機関誌で…」みたいな言説にも賛成しかねます。実際に読売や日経や朝日で働く人を何人も知っていますが、彼らがそんな気持ちで仕事をしているとは、とても思えないからです。

 でも、それはそれとして、テレビや新聞を見ていて辟易することはよくあります。もう少し節度のある報道はできないのか、と思うこともよくあります。

 

「ジャーナリズム」とよく似たフィールドに、「社会学」があります。ジャーナリズムと社会学の違いについて述べると、それだけで1本のブログ記事になってしまうので、それは一旦脇へ置いておきます。

社会学」の社会調査では、研究者は厳しい倫理規定を守らなければならないことをご存じですか?

 一般社団法人社会調査協会という団体が、「倫理規定」と「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」というふたつのガイドラインを公開しています。どちらもネットに公開されていて、無料で全文が読めます。

 

「倫理規定」URL: http://jasr.or.jp/jasr/documents/rinrikitei.pdf

「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」URL: http://jasr.or.jp/jasr/documents/rinrikitei.pdf

 

「社会調査士」の資格を取る場合は、この倫理規定を遵守することが要求されます。

 

 また、「日本世論調査協会」という団体も、倫理規定をウェブサイトに載せています。

(財)日本世論調査協会[トップページ]

 

 私は、何も「社会調査士」の資格を取らなくても、それに近いことをする人たち――すなわち、現場で取材をする記者さんや、それを報道する報道関係者――の人たちは、みんなこの社会調査の倫理規定を知っておく必要があると思うのです。

 

 例えば、「倫理規定」の第3条に、次のような文言があります。ここでいう「会員」とは、社会調査協会の会員を指します。

 

第3条 調査対象者の協力は、自由意志によるものでなければならない。会員は、調査対 象者に協力を求める際、この点について誤解を招くようなことがあってはならない。

 

 つまり「ヤラセ」はいけないと言っているわけです。

 他にも第6条に、次のような文言があります。

 

第6条 会員は、調査対象者をその性別・年齢・出自・人種・エスニシティ・障害の有無 などによって差別的に取り扱ってはならない。調査票や報告書などに差別的な表現 が含まれないよう注意しなければならない。会員は、調査の過程において、調査対 象者および調査員を不快にするような性的な言動や行動がなされないよう十分配 慮しなければならない。

 

偏向」調査はダメだと言うわけです。

 

「人類学の調査に関する基本姿勢と基本指針」の中の、「倫理上の判断とその責任」という項目には、次のようなことが記載されています。

 

15. 研究者が倫理上の問題について判断を下す際には、次のことを考慮しなければならない。

1) 当事者である対象者や研究者の各個人あるいはグループは、同時に複数の異なる社会集団に 属する。

2) 各社会集団の価値観や利害は一般に相互に異なり、判断のために優先順位を検討する必要が 生じることがある。

3) 研究者は、学術的共同体の一員であると同時に、社会の一員である。

4) 研究者が個々の倫理判断において払う努力の質と量は、人々の科学や学問に対する信頼を左 右し得る。

16. 倫理上の判断を行う者は、最善の努力をもって判断に関わる要素を特定し、その判断の根拠 を明らかにしなければならない。

17. 状況の複雑さや判断の困難さは、倫理上の問題に本来的なものであり、安易な妥協の口実に してはならない。

 

「調査」される側も生きた人間であり、それに対して最大限の配慮が行われるべきで、それを「難しい」と言って投げ出してもいけない、というわけです。

 

「解決策」は具体的なほうがいいので、私は次のように提案します。

 ジャーナリストや報道関係者を志す学生には、少なくとも大学生の内に、この「倫理規定」を熟読しておくことを義務付けるべきです。あるいは、義務付けることはできなくても、選考採用の際に、この「倫理規定」をきちんと勉強した学生になにかしらのメリットが与えられるべきです。

 もっと具体的に言うなら、例えば大学の教養科目のひとつとして、「社会調査倫理」という科目を開講し、この「倫理規定」と「人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」を輪読し、各項目について、なぜその倫理規定が必要か、それが守られない場合どんな問題が発生しうるか、学生が持ち回りでプレゼンテーションする――というような授業が実施されるべきだと思うのです。社会学の先生がいれば十分できます。

 本当はマスメディア側が新人研修でやらなければならないことなのかもしれませんが、それはとても望みが薄そうなので、「大学」側で行うことを提案しています。

 

 大学でそんな授業をやったところで、マスメディア側は採用活動のときにそれを見るのか?という疑問については、東洋経済から次のような記事が出ていたので、紹介しておきます。

 学生が大学でどんな勉強をしたかに焦点を置いて採用活動をしよう!という試みです。

toyokeizai.net

 そんなことが本当に実現可能なのか私は疑問ですが、実現するといいなあ、と思っています(大学で真面目に勉強した学生が報われる社会になるべきです…)。

 

 社会調査協会の倫理規定に書いてあることを、マスメディアがすべて遵守しなければならない、ということではありません(いや、しなければならないのかもしれないけど…)。でも、社会学の社会調査は少なくともこれくらい厳しい倫理規定の元で行われている、ということを現場で取材する記者さんは知っておくべきだと思うのです。

 

 私は「社会調査法」という授業を履修したことがあるのですが、そこで感じたことは、「社会調査」というのは、日常を非日常に変えてしまうものだ、ということです。

 その場所で暮らす人にとっては、調査員がいない状態が日常であり、調査員がやってきた途端、非日常が始まってしまいます。社会調査をする人間は、そのことを常に自覚しておくべきです。「自分たちが調査している相手も、自分と同じ生きた人間である」――昨今のマスコミは、この当たり前の原則を、忘れているような感じがしませんか?

 

 最後に参考文献を載せておきます。

www.amazon.co.jp

www.amazon.co.jp

 

 アフィリエイトにはしてないので、買っていただいても私は一銭も儲かりません(その内やり方調べるかな…)。