青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

「奨学金」問題について私が思うこと

奨学金」問題が連日話題になっていますね。

 私がTwitter上で記事をシェアしたり、リツイートしたときの反応の多さでも、この問題への関心の高さがうかがえます。

 よく言われることだけれど、教育分野というのは「一億総評論家」の分野なので、当然といえば当然かもしれません(教育はだれもが受けたことがあるので、みんな評論家になれるということ)。

 

 私は、この問題には複数の論点があると思っているので、以下簡単に整理してみたいと思います。

 まえおきですが、私は教育が専門でもなければ経済の専門でもない、社会学をちょっと勉強してるだけの大学の学部3年生にすぎないので、分析が至らない点やリサーチ不足も多々あると思います。

 ただ私は、学部生5年目で、3つの大学に通いました。そういう意味では、少しは他人と違った見方ができると思っています。私のプロフィールはこちらを参照してください:

こゆき(@eva_q1117)のプロフィール - ツイフィール

 

⑴「学びたい」という言葉はミスリーディング

 この問題に対する反応で、よく見かける態度は、大きくわけて2種類に分けられる気がします。①奨学金は自己責任で借りるのだから返済が苦しいなんていうのは甘え、という態度と、②親の所得の格差によって学歴格差が生まれる社会はやはり健全ではない、という態度です。

  この場合の「学びたい」という言葉が、非常に「文系の作文」(と私はあえて言います)だと感じます。ただ「勉強したい」だけならば、地域住民に開放されている大学図書館はたくさんあるし、科目履修だってできるし、なんなら大学の授業はモグることもできるし、という反論が成り立ちます。

「大学に進学したい」の動機はひとつではないはずです。それは、「学生という身分を保証されたい」かもしれないし、「学士(四年制大学)卒の資格がほしい」かもしれないし、「第一線の優れた研究者と出会いたい」かもしれません。それを「学びたい」のひとことで片づけてしまうのは、なんだかマララさんのノーベル平和賞を彷彿とさせるものがある(いたいけな少女が教育と女性の権利を訴える姿に西欧の人はめっぽう弱いようです)。

 それぞれの場合に、どの程度まで奨学金のリスクを背負う必要があるか、背負う価値があるかというは、個々人の価値判断にゆだねられていると思います。

 ただ、先の反論に野暮を承知でツッコミを入れるなら、人間は大海原に放り出されていきなり泳げるわけではありません。大学の教室も図書館も全部出入り自由にしたから好きに勉強していいよ、と言われて勉強ができるものではないのです。勉強するには、勉強する方法を知る必要があります。そしてそれは、やっぱり大学に「在籍」することでしか学べないと思うのです。

補足:マララさんのノーベル平和賞が必ずしも「正義」ではないことについてもっと知りたい人は、このブログを参照してください。

earclean.cocolog-nifty.com

 

奨学金問題を社会学的な視点から捉えるということ

 私は身近に奨学金問題のわかりやすい「被害者」がいるので、つい同情的になってしまうのですが、以前に見かけたこのツイートもすごく印象に残っています。

 

  実際に奨学金を借りた人で、この手のツイートを苦々しい想いで見ている人というのは、「自分はそんなリスクは百も承知で奨学金を借りたのだ/わかっていたから借りなかったのだ」というものだと思います。

 私も一度、家にお金がないということとは別の文脈で、もう親に依存したくないから奨学金を借りたいという相談を友人にしたところ、「こゆきの成績なら給付型の奨学金をもらえるよ」とアドバイスされたことがあります。

 そうです。学費免除も、特待生入学制度も、給付型奨学金も、探せば世の中それなりにあるのです。

 しかし、私が自分の周囲を見渡している限り、これらの制度にたどり着けている人というのは、みんなそれなりに情報リテラシーの高い人たちだという気がします。言い換えれば、学費免除や、特待生制度や、給付型奨学金が十分衆知されてないがゆえに、奨学ローンに手を出している実情が確実にある。

 奨学金(奨学ローン)安易に借りて後から返済の苦しさを訴える人も、学費免除や特待生制度にたどり着けない人も、そうでない人たちから見たら「考えが浅はか」ということになるのだと思います。

 自分より考えが足りない人を「浅はかだ」と切り捨てるのはとても簡単です。個人レベルでは、そうやってどんどん他者を切り捨てていくことも許されることだと思います。

 しかし、私は社会学を専門としているのであえて強調したいのですが、社会があって、そこにある程度の数の人間がいる場合、「思慮の足りない(ように見える)人」というのは、不可避的に一定数存在するものなのです。ある問題を社会問題として捉えるなら、そういう人たちも社会には不可避的に存在することを前提にして議論を進めなければならない。

「思慮の足りない人」がもっと深く考えるように導かなければならない、というなら教育改革が必要だ、という話になります。あるいは、そういう人たちが学費免除や給付型奨学金の情報にたどり着けるようにするのならば、情報の非対称性を解消するようなシステムを作らなければならない、という話になると思います(私には後者のほうが有効に思えます)。

 

⑶学校で勉強することは『自由』になるということ

 教育ってなんのためにあるのでしょうか。私は『自由』を手に入れるためだと思います。

『自由』ってなんでしょう?

 お金がたくさんあって、欲しいものがすべて変えることでしょうか。校則や親の干渉などの、一切の分の行動に制約をかけるものから解放されることでしょうか。私はどちらも違うと思います。

 真の『自由』とは「なにごとも自分の頭で考え判断する理性を備える」ことだと思います。そしてそれは、一朝一夕に身につくものではありません。きちんと訓練しなければなりません。そういう意味でも、もっと現代的な言葉で言うなら「メディアリテラシー」を身につけるために、教育というものはあるのだと思います。

 そしてこれは何も私の個人的な考えではなくて、フランス共和国が「学校」を他とは違う聖なる場所として捉えていることの根拠になっています。

参考文献:

www.amazon.co.jp

 

⑷日本の大学の現状を考える

 では、奨学金の話に戻って、実際に日本の大学にどれくらい進学する価値があるのか、という話です。

 まずここで、俗に言われる「Fランク校」の定義をはっきりさせておきたいと思います。「Fランク校」とは、なにも偏差値の低い大学を総称して言うのではなくて、定員以下の入学者しかいない学校を指します。

 具体的な例を出すなら、私が去年まで在籍していた短期大学がそうです。私たちの代で125人の定員に対して83人の入学者しかいませんでした。Fランク校に2年間いた者として率直な感想を言わせてもらうなら、Fランク校の就職や進学の状況は

正直かなり厳しいです。

 私は、今の日本の大学をめぐる閉塞した状況の背景には、大学が就職予備校と技術者学校と学術研究機関の3つの役割を「大学」の名の下に一手に引き受けていることがあると思います。

 私は現在、東京外国語大学に在籍しています。東京外国語大学は、しばしば秋田の国際教養大学と引き合いに出されます。国際教養大学を知らない人のために解説すると、「三言語主義」(母語+英語+もうひとつの外国語を卒業までに全員に身につけさせる)ということを掲げていて、秋田県にあるにも関わらず、驚異の就職実績を誇っています。

三言語主義・国際教養大学について:

国際教養とは | 公立大学法人 国際教養大学

国際教養大学の就職実績:

卒業生の主な就職・進学先 | 公立大学法人 国際教養大学

 誤解をおそれずに言い切ってしまうなら、彼らは就職予備校だと思います。そして、同じ語学の学校でも、半数以上が製造や商社に就職する国際教養大学とは対照的に、東京外国語大学の卒業生は、外務省だったり新聞社だったり、卒業後もなんらかの形で「専門の勉強を続ける」道が選ぶ傾向が強く、だから私は東京外国語大学国際教養大学に全然負けてないと思っています(あくまで個人的な意見です)。

 これに限らず、就職実績を上げるのに必死な私立学校は就職予備校化しているところが多いですね。

 就職予備校と学術研究機関としての大学はわけるべき、というところまではわかっていただけたと思います。私がそこへ更に、技術者学校としての「大学」もわけるべきだと考えるのは、理系の実情を見ているからです。社会に出て技術者として働くために必要なスキルを身に着けることと学術研究をすることは必ずしも一致せず、結果両方とも中途半端になっている実情があると思うからです。

学術研究機関」としての大学の必要性は、大学で"真面目に"勉強した人には、あえて説明する必要もないですね。自然科学も、人文社会科学も、人類の智の蓄積のために、むろん研究を続けなければなりません。

「就職予備校」「技術者学校」「学術研究機関」がなんらかの形で分業されれば(もちろんこんなネーミングはストレート過ぎて受け入れられないでしょうが)、それぞれの目的意識を持った人が、それぞれの人生プランに合った道を選ぶことができるし、借りたくない奨学金を借りて無理して「大学」に行く必要もなくなるのでは、と思います。

 蛇足ですが、Fランク校の状況は確かに厳しいけれど、私は短期大学時代の2年間を、そういうことを知ることができたことも含めて貴重な2年間だったと思っています。

 

 

⑸青少年の自立の問題

 私が非常に深刻に考えている問題のひとつに、「毒親とメンタル失調の問題」というものがあります。ルポライターの鈴木大介さんが書いていることです。

wotopi.jp

 簡潔に言うならば、悪い親の元に生まれたがために心を病み、心を病んでいるからアルバイトもままならず、お金がないので親と同居で実家に住み続け、その結果もっと心を病んでしまうという悪循環の中にいる人のことです。

 一見、奨学金問題とはなんの関連もなさそうですが、私が言いたいことは、「青少年が18歳になったら子どもが親から自立できることを保障する」ことの大切さです。毒親のもとに生まれても、大学に通うために親に学費を出してもらい、実家に住み続けざるを得ないなら、メンタル失調も悪化する一方で、下手したら働けないレベルまで心を病んでしまうかもしれません。

 そして、この「18歳になったら子どもが親から自立できることを保障する」ことが、この「毒親とメンタル失調の問題」を解決できる唯一の方法だと私は思っています。そして他の先進国では、これをきちんと実現しているところもあるのです。

 

⑹日本が先進国でありつづけるために

 最後に、私がそれでも「奨学金」問題を社会問題として提起し続ける理由です。

 日本が他の先進国に比べて、教育関連予算が低いことはよく知られていますね。詳しい分析記事を見つけたので、少し古い記事ですが載せておきます。

synodos.jp

 たとえなにがあろうと、他の先進国のように、大学が無償だったり給付型の奨学金が充実していたりという環境を目指すことを、私は「建て前だけでも」絶対に放棄してはいけないと思うのです。日本が先進国でありつづけるために。

 先進国の定義ってなんでしょうか?OECDに加盟することでしょうか。

 日本はどのあたりが先進国なんでしょう?欧米列強といっしょに「大日本帝国」になったから?それは第二次世界大戦までの話です。工業大国だから?それは20世紀までの話です。

「21世紀の先進国」のあるべき姿とは、たとえば大学に無償で行けることであったり、LGBTの人たちにとってもっと住みよい世の中を作ったり、重大な人権侵害である死刑制度を廃止したりすることではないでしょうか?

 今の日本の教育水準やジェンダー環境や人権意識は、果たして他の先進国と肩を並べられるものでしょうか?

 日本が21世紀も先進国であり続けたいと願うなら、貧しい人が貧しいという理由で大学に行くことを諦めるような状況を、放置し続けてはいけないと思うのです。

 

 私の友人のこの言葉を引用して、このブログを締めくくりたいと思います。

 

 少々脱線もしましたが、書きたかったことをすべて詰め込むことができました。

 誤解をおそれずに書いた部分もあるので、もしかして表現によっては不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。お詫び申し上げます。

 最後までおつきあいいただいて、ありがとうございます。