読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

自己責任と"コジンシュギ"

 眠くてブログなど書けないと言いつつ、ひとつ書き留めておきたいことを思い出したので。

 

 昨年度の冬学期に受けた社会学系の集中講義の授業で、その授業の先生と「真の『個人主義』とは何か?」という話をした。

 日本社会では、何かというと「自己責任」論が出てくる。例えば、その集中講義をやってた当時ネットをにぎわせていた「奨学金」問題然り、外国で日本人ジャーナリストが拘束されたときの世論然り、「奨学金は自己責任で借りるのだから返済が苦しくても自己責任だ」「そのジャーナリストは自己責任でシリアに行ったのだから、危ない目にあっても自己責任だ」――本当に嫌になるほど、何もかもを個人の責任に還元しようとするのがこの国だ。

 この「自己責任」論は、西欧的な個人主義の考え方と日本人がもともと持っている性質が悪い形で合わさって生まれたものだ――みたいな仮説を当時の私は持っていたのだけれど(もう細かくは覚えていない)、ともかくそれはまちがいだ、ということがその先生と話している中でわかった。

 日本社会に渦巻く「自己責任」論は、「とにかく自分ひとりで出来る以上のことはするな」という考え方で、それは真の『個人主義』とはほど遠い――というのが、その先生の意見だった。その先生は医療社会学を専門にしているのだけれど、この「自己責任」『個人主義』の定義を採用してしまうと、障がい者などは「何もしてはいけない」ということになってしまう。そうでなくて、障がい者が「自分の意志で」「自由」に行動できるように適切なサポートを与えることこそが、「個人の尊重」であり、それこそが真の『個人主義』だろう、と。そして、これはもちろん障がい者に限らず、健康な人でも同じだ。

 

 なるほどなぁ、と思った。

 

 …と思ったら、そういうことを言っているのは何も私とその先生だけじゃなくて、何年も前に優れた先行研究が出ていた。『変貌するアジアの家族――比較・文化・ジェンダー』(2004、昭和堂)の中で、ケント・ポーリンというイギリス人の日本研究の先生が、日本独特のこの『個人主義』を真の個人主義と区別して「コジンシュギ」として論じていた。

www.amazon.co.jp

 

 ともかく私も18歳か19歳くらいまでは、人生で起こるすべてのイベントの責任は私に帰属していて、だから社会に隠された悪を効率よく拒む方法を身につけることこそが大人になるということだ――という考えを持っていて、もしも大学中退を経験しないでストレートで卒業していたら、そう思ったまま卒業していたかもしれない。だから、18歳から22歳までの4年間、という時間は(特に人文社会科学の)学問の意義に気付くにな、あまりに時間が足りないし、あまりに若すぎるよなあと思う。私は大学生活の5年目くらいにようやくそれに気づいたけど、普通の大学生は大学5年生にはならないのだ。

 この自己責任論にハマっていった結果、私は「人生は一度の失敗も許されないなんてあんまりじゃないか」と思うようになり、病み気の頃はそんなことばかり考えていたのだけれど、そうじゃなくて、社会はもっと希望あるものに変えられる、というのを私に教えてくれたのが人文社会科学だ。

  そう、「個人の救済は勉強」なのだ。