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青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

毒親ってなんだろう

 最近、ネット上で「毒親」関連のコンテンツをよく見かける気がします。その多くのものは、毒親のもとで幼少期を送った人が自分自身の経験をブログやマンガで発信する、というものです。わたし自身も「毒親育ち」との自覚があり、そういったコンテンツはついつい読み入ってしまいます。

「毒親」関連のコンテンツはたくさんありますが、ここではひとつだけ紹介しておきます。この「毒親告白に対する反応例」は、多くの毒親育ちの人が共感するところではないでしょうか。

 

 その一方で、最近はこんなことも考えます。毒親の定義ってなんだろう?

「毒親」という言葉を最初に使った人はスーザン・フォワードという人だと言われています。彼女の著書『毒になる親』が由来だそうです。

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)

 

 

 最初に断っておきます。わたしはこの本をまだ読んでいません(笑)。いつか読みたいと思っているけれど、今のところは読む時間が取れません。

 問題の提唱者の原典にも当たらずに問題を論じるなんて、アカデミズムの世界では許されない行為ですが、ここはブログなので大目に見ていただくとして、わたし自身の経験や、わたしの身の回りの事例から「毒親の定義」を考えてみたいと思います。

 

「毒親」経験の中身は、実に様々です。親が子どもに暴力をふるう、という例はわかりやすいですが、そんな明らかなケースはそれほど多くないように思います。それよりも圧倒的に多いのが、親がその言動によって子どもを精神的にジワジワと追い詰める、というケースです。

 メンタルを追い詰める系の「毒親」にも、どうやらいろんなパターンがあるようです。親自身が何かの精神障がいや発達障がいを抱えているパターンや親自身も虐待されて育ったパターン。親が(カルト)宗教やギャンブルにハマっているパターン。ある特定の(あるいはあまりに古い)価値観を押し付けてくるパターン。過干渉してくるパターン。そうではなくて、兄弟の間で明らかに扱いが異なる(お姉ちゃんばっかり優遇するとか)や、夫婦間に問題があり子どもがそのスケープゴートになっているパターン、等々、具体例を挙げればキリがないと思います。(なお、精神障がいや発達障がいを持った親が毒親になり得るという話は、彼らが悪であることを意味しません。念のため。)

 

 しかし、ここからがこのブログの本題なのですが、「毒」というのは裏を返せば「薬」でもある――という言葉の通り、「毒親」に分類されるものも、ある場面では、あるいはある人物にとっては、薬になる、と思うのです。

 結論を急がないでください。だからってあなたの毒親体験が「なかったこと」になるわけではありません。むしろ、「毒親」が定義不可能だからこそ、わたしは「毒親」に対して最もラディカルな定義を提唱したい――というのがこのブログの狙いです。これについては後述します。

 

 まずはわたし自身の経験について書きます。わたしは、長く自分の親が毒親だと思ってきました。実際、母や父の言葉に深く傷ついたし、成人になる前に精神安定剤の手放せない身体になりました。ずっと父と母のことが大嫌いでした。

 そんな親とわたしの確執を、ある程度まで解消させてくれたのは、ハタチのときに付き合ったボーイフレンドでした。わたしが付き合ったボーイフレンドは、「今どきこんな考え方の人がまだいたのか!」というほどの保守的な、家父長的な世界観――家族の中では父親がいちばん偉くて、兄弟の中では長男がいちばん偉くて、親は弟が兄を(妹が姉を)尊敬するように育てるのが正しい育て方である――というような、「三丁目の夕日」的な世界観の中で生きている人でした。

 彼が強固な「家族はこうあるべきだ」像を示してくれたおかげで、わたしは自分の家族を客観的に見ることができるようになったし、自分の家族のどこがおかしいか気づくことができた。わたしの家族問題の解決はそこから始まったのです。

 でも、保守家族観って、毒になるパターンもあると思いませんか?「ウチの親はなんて考え方が古いんだろう」と「ウチの親は正しい家族の在り方を教えてくれた」はこの場合はコインの表と裏で、わたしのボーイフレンドはたまたま後者だったにすぎません。

 これは「宗教」や「過干渉」についても言えるのではないでしょうか?例えばへヴィーなクリスチャンの家庭に生まれた場合、その事実を呪う人もいれば、自身もキリスト教を深く信仰するようになる人もいるでしょう。あるいは過干渉も、「ウチの親はなんでも口出ししてきてウザイ!」と、「ウチのママは就職でも恋愛でもなんでも相談に乗ってくれて、親子というより友だちみたいなの」というのはコインの表と裏です。基本的に、ある人にとっては毒になり、ある人にとってはならない、ということに過ぎないように思います。(なお、程度の問題もありますし、あるいは関わり方の問題もあるかもしれません。また、毒親にならなかった場合でも、それが「良い」か「悪い」かは、心理学の本などで調べてください。わたしの少ない知識をここで書くのは控えます。)

 このようにひも解いて行くと、「毒親」というのは、その内容においては定義不可能のように思えるのです。

 

「実際に家で起きた現象」によって「毒親」を定義しようと試みる人もいます。「そうは言っても、月に1回警察騒ぎになるわたしの家が普通だとは思えない」とか「弟が3回も自殺未遂しているウチの親はやっぱり問題がある」というものです。

 でも「実際に家に起きた現象」で定義しようとすると、必ず、「いや、ウチは他の毒親家庭よりはマシなのかな…?」との思いがわいてきます。そして、「質」で比べ始めると、だいたい「極論」に行きつきます。わたしは、毒親メンタル失調の最底辺のひとつが、セックスワークに吸収されていく女性たちであるように思います。

 貧困に陥った若者を多く取材しているルポライターの鈴木大介氏は、貧困は「3つの無縁と3つの障がい」によって起こると言います。3つの無縁とは、「家族との無縁、地域との無縁、制度との無縁」、3つの障がいとは、「知的障害精神障害発達障害」です。そして、女性がその結果セックスワークに吸収されていく様子を彼のルポルタージュは描いています。

最貧困女子 (幻冬舎新書)

最貧困女子 (幻冬舎新書)

 

 

「ウチの親は人格否定の言葉は吐くけど、カルト宗教にハマってる親よりはマシか」とか、「わたしの親は暴力はふるうけど、家に経済的余裕があるだけマシか」などといった考察は(本人にその余裕がある場合は良いけれど、その余裕が出てくるのは確執を解決してからだいぶあとのことなので)、しばしば「毒親家庭の中では相対的に恵まれているのに、それごときのことで心を病んでる弱い自分」として、自分を責める動機になります。毒親育ちの子どもがそんなふうに自分を責めることは百害あって一利なしです。

 

 世の中でいちばん残酷なことってなんでしょうか。

 わたしは「そこにある痛みを無いことにする」ことだと思います。

 例えば上に貼ったツイートのように、毒親告白に対して「考えすぎではないのか」とコメントする。あるいは、ある苦労をしている人に対して、「もっと苦労している人もいるのだから」とコメントする。あるいは、さっきも書いたように「暴力はふるうけど、経済的には困ってないから…」と言って、自分の心の痛みを過小評価する。

「そこにある痛みを無いことにする」例をもうひとつあげます。

 それは、「経済的に苦労したことが無い人は何を言っても甘え」というような圧力です。心を病んで精神科に何年も通院している人に対して、「アルバイトでもして経済的にもっと苦労したら、うつ病なんか治るのではないか」と言い放つ人がいます。これも、「そこにある痛みを無いことにする」例だと思うのです。「毒親」家庭が必ず経済的にも困窮しているなんて法則はありません。お金は稼ぐけどヒドイ親、というのはいくらでもいます。

 

 では、「毒親」は如何にして定義可能か。

 わたしは、「子どもが毒だと思ったら毒親」という定義しかないように思うのです。

 同じ状況でも、毒にも薬にもなり得ることは、すでに検証しました。また、その「質」で比べると「極論」に行きつくことも検証しました。そして、「そこにある痛みを無いことにする残酷」を避けようとするならば、この定義を採用するしかないと思うのです。

 あなた自身が、あなたの心が親によって傷つけられたと思うなら、その親は「毒親」です。

 この定義も多くの問題を孕むでしょう。でもまずは、自分は傷ついているんだと認めてあげてください。そして、今日まで一生懸命生きてきた自分を褒めてあげてください。他の人のことを考えるのは、そのあとです。

 

「そこにある痛みを無いことにする残酷」についての、鈴木大介氏のツイートを貼ってこのエントリを締めくくろうと思います。

 

 

 

 

 この世の中でいちばん残酷なことは、そこにある痛みを「無いこと」にすること――これはわたしが繰り返し考えてきたテーマであるし、生涯を通して考えていくテーマだと思います。