青色の空に神様がきた

Twitterの140字では書ききれないあれこれを。ブログに述べられている考察は、あくまで筆者のブログ執筆当時の考えであり、当然ながら日々勉強したり議論したりする中で考えが変わることもあります。また、このブログはいち大学院生の個人ブログであり、いかなる機関の公的見解を示すものでもありません。

体調が悪い

ずいぶん長い間ブログの記事を書いていない。授業だ、バイトだ、課題だと忙しかったのは確かだけれど、そんなのは言い訳にすぎない。ここ数ヶ月のわたしには明確な“ブログを書けない理由”があった。かくかくしかじかの理由で、無期限でブログをお休みしますというような記事を出そうかとさえ思った。でも、更新を急かされるわけでもないブログでそんな宣言をする必要もないかなと思って辞めた(気づいたら最後の更新から2ヶ月以上が経っている)。ちなみに“わたしがブログを書けなかった理由”は今日の本題ではないので、その話はまた今度。

先に断っておきます。今日のブログは随筆文なので(いや、ブログはいつだって随筆文だが)、ただ考えていることを思いのままに書きます。読みづらいと思ったらブラウザの戻るボタンを押してね♡

 

体調が悪い。

 

いや、悪くはない。大学院生になってからのわたしは、自分史の中で見れば相対的に体調はかなりいい。食欲はあるし、ガリガリに痩せてもいないし、お肌の調子もいいし、毎晩ぐっすり寝てるし、なによりツイッターの鍵付きアカウントに毎晩「死にたい」と書き込んだりしない(そんな時期があったのだ)。

でも体調は悪い。薬の副作用は相変わらずひどいし、食べものアレルギーが多くてひどい偏食だし、帽子をかぶらないと外に出れないし、かき氷1杯で腹を下すし、月に2回のペースで熱を出している。

ある日、本屋で『不調のときに食べたいごはん』という本を立ち読みした。そして思った。「わたし毎日こういうごはん食べたい」。きっと健康なひとを基準にすれば、わたしは毎日「不調」なのだ(この本は後日購入した)。

自分はマイノリティだと思う。中国人ハーフで、転勤族で、帰国子女で、カトリックで、大学中退経験者で、ついでに今は大学院生だ。でも、自分の中でマイノリティとしての当事者意識がいちばん強いのは「病気を抱えて日本社会で生きている」ということだろう。病気になってみればわかるけれど、日本社会はびっくりするほど病気のひとに対して冷たい。

ビジネスホテルに泊まれば必ず全身に湿疹のできるひとの気持ちがわかるだろうか?業務用の洗濯のりがダメなのだ。肌が弱いから化粧もできない。市販のハンドクリームや乳液の類はほとんど使えない。素手で洗剤にさわることもできない。ひとり暮らしの知人が「だって効果は同じだし」食器用洗剤で手を洗っていると聞いたときは「ふぉお、健常者っょぃ」と思ったものだ。

日本の長時間労働は健常者だってつらいけれど、わたしみたいな病気のひとはそもそも「普通に働く」という選択肢がない。9時5時で週5日働く体力があるかだって怪しい。薬の副作用があるから、長距離の飛行機にも乗れない。「死ぬまでヨーロッパに行けないの?」と聞かれたら、真顔で「シベリア鉄道でなら行けるかな」と答えるようにしている(もちろんジョークだ)。

夏休みになるとインスタやらフェイスブックやらに、旅行やらかき氷やら花火大会の写真が次々に流れてくる。心が荒んでいるときのわたしは「ヨーロッパに飛行機で行ける健康な身体があっていいですね」「かき氷を食べれる丈夫な胃があっていいですね」「花火大会の人混みに耐えられる体力があっていいですね」。すべてがすべて、そんな風に思えてしまう。

「それだけ優秀だったら、就活は引く手あまたでしょ」と就活のときにどれだけ言われたかわからない。違うのだ。日本語と英語と中国語を使いこなし東京外大を卒業している女性に企業が求めているのは、「月100時間の残業も平気でこなし海外出張にバリバリ出かける」ような働き方なのだ。その働きをする健康な身体がなければ、語学力と東京外大卒の肩書きはただのゴミ屑だ。就活をしていて痛いほど実感した。

 

教育社会学の勉強はおもしろい。研究の道を選んだことを後悔したことはない。ゼミの先生にも同級生にも恵まれて、この道を選んで良かったと心から思っている。それでも、自分の身体の制約をもどかしく感じることがある。もっとたくさんの研究会に入りたい。もっとたくさんの勉強会に出席したい。でもわたしの限られた体力は、必修の授業に出るだけで精いっぱいだ。アメリカやイギリスに行って方法論を学びたい。博士に行ったら学振を取りたい。でも研究費をいただくということは、限られた時間内に成果を出さなければならないということだ。わたしの体力でつとまるだろうか?考えだしたら不安は尽きることがない。

 

BUMP OF CHICKENに「HAPPY」という曲がある。その曲の出だしの歌詞は、こうだ。

健康な身体があればいい 大人になって願うこと

たまに親しい友人に、病気を抱えて生きていくことの不安を打ち明けると、「BUMPの歌詞の通りだね…」と言われることがある。うるせぇよ。バンプを歌えばわたしの病気が治るんですか。


BUMP OF CHICKEN『HAPPY』

 

この話にオチはない。強いて言うなら、19かハタチくらいの頃のわたしは、日本社会に蔓延する「自己責任論」を骨の髄まで内面化していた。病気になってしまった自分を責めた(今の病気で正式に病院にかかり始めたのは高2のときだ)。病気になった自分に生きている価値はないと思った。でも今は、そういう考え自体がおかしくて、病気のひとや障害者や外国人やお年寄りや子どもや女性にとって、もっと「生きやすい」社会に、社会のほうが変わっていくべきなんだと思えるようになった。そう思ったからって社会が急に変わるわけじゃないけれど、少なくとも「生きていてごめんなさい」と思うことはなくなった。わたしはわたしで、やるしかないのだ。

 

2017年8月18日 追記.

だから、わたしは自分の身体を大切にしないひとを見ると本当に腹が立つ。身体に替えは効かないのだ。健康な身体は失って初めてそのありがたみに気づく。でも、失ってしまってからでは遅いのだ。